night 19 : Rapidamente


( Heroine )

 雪遊びをやめてから結構な時間がたったはずなのに、の両手は麻痺でもしたようにかちこちで、色はすっかり赤くなっていた。あいかわらずふりつづけている雪はしばらく止みそうにない。
 雪の白と真っ赤な手、そのどちらもがアレンくんを連想させ、視線は無意識のうちに、少しだけ薄くなった足跡をたどった。立ち上がり、肩に積もった雪を払う。いまのアレンくんを一人にさせるのは心配だ。

( Allen )

 やっぱり一人で出てこないほうがよかったかもしれない。なんだか妙な感じがする。
 あれから僕は一度もふり返ることなく歩き続け、いつのまにか大通りにやってきていた。肌に触れる空気が変で、どこからか監視されているような感じがまとわりついてくる。いや、どこからかというよりもむしろすれ違う人たちすべてが怪しく思えてきた。いままでこんなこと一度だって思わなかったのに、左眼が使えないだけで息が詰まりそうだ。視線のようなものを背後から感じてふりむいてみるが、何もない。もう何度もこの繰り返しだった。
「エクソシストでちゅね」
銃口の突きつけられるような音と爆音とが、ほぼ同時に響いた。鉄の焼けるにおいが鼻を刺し、爆風をまともに受けた僕はふりむきざまバランスをくずして地に尻をついた。
「あっぶな〜。が言ったとおり追ってきて正解さ」
ラビの声が聞こえるまで、自分の周りで何が起こったのかよく理解できなかった。まさかアクマが本当にまぎれているとは思わなかったし、わかったあとも身体が固まってしまっていた。もし彼の駆けつけるタイミングがあと少しでも遅かったら……これ以上考えたくもない。微弱になった風が、寒気で感覚の消えかけている頬を撫ぜた。
「ほら、はやく立ってアレンくん。敵が来るわ」
辺りを警戒しながらやってきたさんに手を引かれる。そのときになって初めて、周囲の人々とそれをとりまく空気がさっきと違うことに気づいた。

 悲鳴が上がる。ラビはアクマを破壊しただけなのだが、外見は人間そのままなせいか、一般人にはまるで人を殺したように見えたらしい。人々の混乱は弁明するまもなくあっという間に伝染していき、とたんに周りが騒がしくなった。
「アレン、大通りは人が多くて危ねぇよ。アクマに背後をとられる」
「ご、ごめん。でも、ラビは今どうして……」
ふたたび背後で大きな爆発がおこり、そのあいだ僕の声を含めたすべての音をさらっていった。今度の攻撃は敵からのもの。見ると、人ひとりの身の丈ほどもありそうな直径をした鉄球が、舗装されて強度も増しているはずの道路にあっさりと深くめり込んでいる。
 そこから顔を上げて周囲に視線を滑らせると、ある建物の屋上にアクマらしき姿を見つけた。レベルの低いアクマはたいてい面倒なやりかたをしないから、今回の攻撃も威嚇ではなく、僕らを殺すつもりだったはずだ。外れたのは、ただ運が良かったから。危なかった。
「っあちち、なんだこれ、熱い!」
とつぜん鉄球から漂ってきた熱気は、もはやむせ返るというレベルではなく、かなりの距離をとっているにもかかわらず、身体が焼け焦げてしまいそうなほどだった。僕らが思わぬ副産物に気をとられている瞬間は、相手にとって格好の狙い時らしい。熱から逃げるようにして飛び退いた、その着地点に向かって、第二撃が打ち込まれた。

 あのとき向かってきたアクマの鉄球は、ラビの巨大化した槌によって砕かれた。そしてより戦いやすい場所へと走り出す。あれだけ周りを囲まれていては、いくらこちらが三人だといっても不利な状況になりかねないと考えたからだ。……ラビが勢い余って壊してしまった建物の一部は、見ないことにした。
 屋根から屋根へ伝い、敵との距離を広げていく。後方で追っ手を片付けながら走っていたさんが、掃除は必要ないと判断したのか僕たちに並んだ。
「狙いもなにもないわね。まあ、こっちにとっては好都合なんだけど」
彼女の言葉どおり、未だに足元で弾の跳ねる音はするのだが、当たるどころか掠りもしない。しばらくすると、そうとう引き離したようで、跳弾の音さえも聞こえなくなった。

 見通しのよい、ひらけたところに出た。普段ならば広場と呼ぶべき場所なのだろうが、雪と気温のせいか立ち止まる人などおらず、ただの通り道と化している。まだ昼間だというのに、人の話声がしない。静かすぎて、怖い。
「しっかし反応遅いぞアレン。アクマの姿になってから戦闘体勢に入ってたら、死ぬぞ?」
手持ち無沙汰に槌をいじりながらラビが口を開いた。そんなことを言われても、まさかあの人がアクマだなんて、今は使えない呪われた眼以外で気づくことなどできないはずだ。だけど……ならば、ラビやさん、他のエクソシストたちは今までどうやって。
「ラビはどうしてわかったんですか?」
初めて任務へ赴いたときに資料だけではわからなかったことをふと尋ねたような、なにげない問いのはずだった。
「わかんじゃねェよ、全部疑ってんだ」
何かコツのようなものでもあるのだろうか、なんて漠然と思っていた。だけどその答えは、覚悟もなにもしていなかった僕にとって、あまりにつらすぎるものだった。
「昨日会ったやつが今日はアクマかもしれない。オレらはそういうのと戦争してんだから。おまえだってそんなことわかってんだろ、アレン」

 自分に近づくやつは全部ずっと疑ってる。そう言ったラビの苦しげな顔がしばらく頭から離れなかった。
「それって」
さんも? そんな言葉が出そうになり、あわてて僕は口をつぐんだ。任務中いつも他人のことを気遣っている彼女はもしかしたら違うのかもしれない、なんて、どうして一瞬でも考えてしまったんだろう。人間すべてを疑うことは悪でもなんでもない。エクソシストとしてやっていくならば、当たり前のこと。
 教団のみんなに仲間として受け入れられ、任務に赴き、アクマを救済し、どんどん力をつけた。それでようやくみんなの横に並べたつもりでいた。
 でも、僕がこの眼に甘えているあいだ――師匠もラビもさんもエクソシストになった人たちはみんな、人間の中で、ずっと人間を敵と見て戦ってきたんだろう。その中にいるアクマと戦うために、身を曝して囮となって。守るべき人間を守るために。
 遠くから、悲鳴をあげながら女性が近づいてきた。数歩先で泣き崩れた彼女に駆け寄り、地に膝をつく。額に銃口の冷たい感触。ドンという音のあとに、女性が倒れかかってくる。鉄の焼けたにおいがした。
 僕はこの道を歩き続けると決めたんだ。なら、この団服とともに覚悟を決めなければ。

 白いふわふわした雪のじゅうたんの上に思いっきり全身を預ける。息は弾むし寒さと激しい運動のせいで肺が痛かったが、怪我はない。さんもラビも、無事なようだ。
「何体壊った?」
横で同じように荒い息をしているラビが、顔をこちらに向けた。戦っているときは警戒しながらの戦闘に必死で、他のことを考えている暇などなかった。左眼が使えないと、レベル1相手でもとたんに余裕がなくなる。どれほど自分があの能力に頼っていたのか、この一時間ほどで痛いほどわかった。
「30……くらい」
疲れ具合から推測して、適当に答えた。
「あ。オレ勝った。37体だもん」
ちょっとだけ嬉しそうにしているラビを見ても、悔しいという気持ちはわいてこなかった。これが神田だったりしたら、むちゃくちゃ腹が立って第二ラウンドを開始してしまうだろうけど。
のも全部足して約100。ただの個人攻撃レベルね。たちの負傷を狙ったのか、それとも他に何か別の目的があるのか……」
そう言ってさんは顎に手を当てて考えこんだ。彼女は息が上がっている様子もなく、額に汗すら見えなかった。倒した数は同じくらいでも、体力を温存することまで考えながら戦っていたらしい。

 そういえば、病院は大丈夫なんだろうか。起き上がろうと地に腕を着いた瞬間、手首から肩にかけて激痛が走った。
「ッ、痛て!」
あまりの痛みに涙が出そうになる。修理したばかりでまだ完治していないのに、いつもの調子で暴れてしまったせいだった。
「アレンくんの腕もリナリーのほうも心配だし。病院、戻りましょうか」
差し出された手の冷たさに驚いた。僕の腕よりも、さんのほうが心配になってくる。立ち上がって下を見下ろしてみると、新たに降り積もった雪がアクマの残骸を覆い隠していた。全面真っ白だ。
「病院てたしかあっちのほうだよな」
槌を取り出して握りなおしながらラビが言った。さんが黙ってラビに抱きつく。思考が、止まる。
「あー……えっと」
惨めな気持ちと悔しい気持ちが湧き上がってくる前に、ここ握ってとラビに促されて槌の柄を持った瞬間、ものすごいスピードで前に引っ張られ振り落とされそうになり、そんなことを考えている余裕などなくなった。下は建物がミニチュアのように小さく見え、後ろはというと槌の柄がさっきいたところからずっと伸びている。
「病院まで伸伸伸ーんっ!」
どうやらこれがラビなりの移動方法らしい。さんがラビに抱きついたのも、柄の長さに余裕がないからだったんだ。このスピードならば病院へ着くのはすぐだろう。そのとき、さんがラビのほっぺたを引っ張った。
「こら、鼻の下伸ばさない」
ラビはヘラヘラと笑い、僕と目が合うとニヤッと笑った。やっぱり前言撤回。くやしい!


ラビは下心あり。