night 18 : Amoroso


( Heroine )

「それをウチらに聞きに来たんさ。正確には、ブックマンのジジイにだけど」
 せっかくかき集めた書類が数枚、はらりとすべり落ちる。アレンくんが来て以降ドアが開いた気配はないはずなのだけれど、ダンボール箱へ被さって柔らかく笑うその男は確かに、そこに存在していた。とラビが同じ場所にいるのではないか、というアレンくんの読みは、実はしっかりと的中していたのだ。
 驚きが大きすぎるあまり声も出ない皆を気にしたふうもなく、ノアは歴史の裏にしか語られない無痕の一族だ、歴史の分岐点で度々出現しているわりに記録がない、というようなことを彼は流暢に語り始めた。裏歴史と呼ばれるものをいくら薄らとはいえ、こうも簡単に説明してしまっていいものなのだろうか?
 彼の口の軽さを心配していた矢先、その姿がとつぜん視界から消えた。
「しゃべりめが。何度注意すればわかるのだ。ブックマンの情報はブックマンしか口外してはならんつってんだろ」
文献の山が崩れる音、壁に何かがめり込む鈍い衝撃、そして、あの惨状をなんとかしなければならないということからくる微かな頭痛を一度に感じた。の今までの努力は(ラビの吹っ飛んだ軌道に限りだが)一瞬にして無に返ったのだ。
 老体とは思えないほどの見事な跳躍力と飛び蹴りを見せた現・ブックマンは、軽率すぎるラビの行動を戒め、ついでに、すべてを押さえ込むような威圧感をアレンくんに向けた。
「アレン・ウォーカー。今は休まれよ。リナ嬢が目覚めればまた動かねばならんのだ」
 まるで子犬か何かのようにぽいと部屋の外へ放り出されたアレンくんとラビの気配はしばらく扉の向こう側にあったが、ここにいてもしょうがないと悟ったのか、二人ぶんの足音はすぐに廊下の奥へと消えていった。「急くでない」というブックマンの重厚な言葉が思いのほか効いたらしい。

( Allen )

 病院を出るまでおたがいなんとなく一言も口を開かなかったけれど、考えていたことは一緒らしい。視界いっぱいに雪景色がひらけるまでずっと、進行方向が違うことはなかった。出口へ近づくにつれ、だんだんとまわりの温度が下がってきた。
 院内とは比べものにならないくらいの、あまりの寒さに驚いた。しかし、いくらなんでも今まで訪れたどんな場所よりすさまじいような気がする。
「あっ。コートわすれた! どうりで寒いと思っ」
ラビが、ぼーっとしたまま動かない。左の頬に手を当てたまま、まるで僕の存在を忘れてしまったかのように突っ立っていた。吐く息は白く、ひんやりした空気にさらされている素肌は痛みさえ感じる。コートを取りに行こうか、でも、ラビの妙な様子も気になる。
「どうしたんですか、ラビ。頬なんか押さえたままニヤニヤして」
「ん。ああ、別に。寒ィなと思って」
あわてたふうでもなかったけれど、正直に答えるつもりもないようだ。
「なに隠してるんですか」
彼の嬉しそうな様子からして、なんでもない、ということはまずありえなかった。だいたい相手に勘ぐられるような動きを見せた時点ですでに怪しいのだ。けれど問いただすより先に、さくさくと雪を踏む音。おそらく僕のものだろうコートを持ったさんが、そこにいた。
「アレンくん、コート忘れてったでしょ。はい」
「えっ、あ。ありがとうございます」
受け取ったそれを手早く着ると、そのあたたかさに頬がゆるむ。さすがは教団特製のコート、今までさんざん僕を苦しめていたはずの寒さは一瞬で消え去った。
「あはは、今までよく平気だったねぇ」
そう言いながら笑うさんは寒さのせいか、服に覆われていない部分の肌がいつもより白く……というより青白く見えた。着ているものの厚さが同じでも、彼女自身は寒さに耐性がないらしい。それを見かねたラビが自分のマフラーをはずし、そっと彼女の肩にかけた。驚いたように少しだけ瞳が大きく見開かれ、そしてゆっくりと表情が柔らかくなる。
「ありがと、ラビ」

 二人の様子にまるで長年連れ添った夫婦のような感覚を覚え、少しだけ気が遠くなった。僕が今まで積み上げてきた関係は、いくら自分が満足していようとも、実際にはたった三ヶ月の付き合いなんだと思い知らされる。一緒に過ごしてきた時間の差をうめることは、不可能なんだ。
 よけいなことばかり考えていると、いつのまにか雪だるまの頭の直径はスイカ大にまで成長していた。作り置きしてある片割れとのつりあいがとれない。それに対してラビは、僕のと比べるとかなり小さな、しかしちゃんとした完成品をすでにいくつか作り終えていた。
「あ、そうだ。いまさらだけどな、アレンのことモヤシって呼んでいい?」
こめかみが引きつったかと思うと、思いがけず指先へ一気に力が集まった。ボブッという地味な音をたてて消えてしまった大玉の代わりに、雪の欠片がパラパラと足元へ帰っていく。からかうように笑うラビの顔が、僕のほうをじっと見た。
「だって、ユウがそう呼んでたぜ」
そんな名前は一度も聞いたことがなかったが、ラビがあんまり自然に言うので少し考えてしまった。ティム用のかまくらをつくっていたさんが小さくこちらに興味を示す。
「あれ。おまえ知らねぇの? 神田ユウっつーんだぜ、あいつ」
それを聞いて初めて、そういえば「モヤシ」は神田が発端だったと思い出した。
「今度呼んでやれよ、目ん玉カッて見開くぜ、きっと」
神田=(イコール)ユウが僕の中に定着したのを確認したラビはいたずら好きの子どもみたいに笑って、新しい雪だるまづくりに手をつける。寒さのせいで早々にかまくらづくりを断念したらしいさんが、赤くなった両手をこすり合わせながら呆れ顔でやってきた。
「もう、そうやって人で遊ぶのやめなさいよラビ。ただでさえ二人は衝突が多いのに」
いままで、何度さんが仲裁に入ったかわからない。望んで言い合いをしているわけではないのだが、神田と顔を合わせると、どうしても騒ぎに発展してしまうのだ。

 しかし、声のするほうを見たもののラビに反省の色はない。さんは小さく肩をすくめたあとベンチの上に積もった雪を払って腰掛け、後を追ってきたティムの相手をし始めた。
「ま、呼ぶにしろ呼ばないにしろ、会うのはしばらく先になるかもなー」
新たにできあがった雪だるまを持ち上げて満足そうに眺めながらラビはそんなことを言った。任務も終えたことだし、リナリーが目覚めればすぐに教団へ戻るのだと無意識のうちに思っていた僕は少しだけ驚いた。たしかに、コムイさんが直々に教団の外へ赴くなんて、いままで、というか、僕が入団して以来はじめてのことだけれど。
「しばらく先になるって、どうしてですか?」
ラビは、あくまで自らの「予感」だということを強調して――けれどただの推測では終わりそうにない程度の確信を持って続けた。
「次の任務はかなり長期のデカイ戦になんじゃねーかな。伯爵が動き出したんだ」
今度は千年公のシナリオの中でね、という言葉を残して扉の奥に消えていったロードの姿が浮かんだ。あんなことがあったばかりなのに、どうしてすぐ結びつかなかったんだろう。
 あのとき僕はノアを撃つことができなかった。たとえさんが止めていなくても、何もできずにずっとあのまま固まっていたに違いない。アクマを壊すことに対してはためらいなんてないけれど、人間は別だ。もしノアがふたたびアクマを率いて敵として目の前に現れたとしても、僕にはとうてい殺せそうもなかった。
「僕はアクマを壊すためにエクソシストになったんだ、人間を殺すためじゃない」
無意識のうちにそんな言葉が漏れていて、気がつくと足が前へ進んでいた。思うことがたくさんありすぎる。その場でじっとしているよりも、歩きながらゆっくり考えたかった。
「おい。どした、モヤシ」
この呼び方はどうも好きになれない。純粋な愛称とは明らかに違って、どこか人を馬鹿にしたような意味が含まれているからだろう。
「アレンです。ちょっと歩いてくるんで先に戻っててください!」
思いのほか強い口調になってしまった。こんなに怒鳴るつもりはなかったのだが、今は謝るような余裕もない。ラビはすっかりをつぐみ、僕がその場から遠ざかっていっているせいもあり、もうそれ以上彼の声は聞こえてこなかった。

( Heroine )

 病院の敷地から外へ続く足跡を目で追ってみるが、もうアレンくんの姿はない。雪はあいかわらず降りつづけているし、放っておけば跡はすぐまっさらに消されてしまうだろう。
 雪だるま作りにもいいかげん飽きてきたらしいラビがのすぐ横に腰を下ろした。
「こんな寒ィなか出てきたのも、アイツが心配だからだろ?」
言われてみれば、そうかもしれない。誰にでも世話をやきたくなるのはの悪い癖だが、今までこれほど過保護になってしまうようなことはなかった。彼が一人で行動する、それだけのことなのに、もう、追いかけなきゃという使命感のようなものが生まれつつある。
「ぜんぶ自分で抱え込んでるような感じの子だから。放っとけないのよね」
彼にとっては余計なお世話なのかもしれないが、あの子は自分のことをつい、ないがしろにしてしまうところがあるから。少しくらい過度に心配するような者がいて、ちょうどいい。

大きな戦のまえの、聖職者たちの会話。