night 16 : A tempo


( Allen )

 僕たちは、あっというまに宙へ放られてしまった。いつになったら終わるのかわからない、着地点の見えない落下というものは本当に恐ろしい。いま見えるまっ暗な空間どころかさっきまでいた部屋さえ把握できていないのだから、恐怖は数倍増しになる。まわりには妙な箱ばかりが浮かんでいて、リナリーとミランダさんの姿はもう、どこにも見えない。
さん!」
これ以上散り散りになるのは危険と考え、意志とは関係なく自然と離れていきそうになる彼女を、手を掴むことで自分側へ引き寄せる。止まらない落下の中、僕の意識は、つないだ手を離さないことだけに集中していた。

 目が覚めたというよりは、周囲の景色自体が急に変化したような感覚だった。そして落下していたときの名残は何もなく、体が打ち付けられたような痛みも感じない。ただ一つ、今までのできごとが夢ではないことの証明といえば……下ろした視線が二人ぶんの手を捉える。もう必要もないのに固く結ばれたそれを見、あわてて解放してやるが、取り乱しているのは僕のほうだけだったらしい。さんは気にしたふうもなく平然としていた。
「ねえアレンくん。ここ、ミランダさんの部屋じゃない?」
言われて見回せば、たしかにそのとおりだった。家具があちこちに散乱していることをのぞけば、朝に見たときそのままの景色。急な変化についていけず、寝起きのような気だるさでいっぱいになり、思考がしばらく働かなかった。
さん、アレンくん! ミランダさんの様子がおかしい!」
隣の部屋から聞こえてきたリナリーの声が一気に意識を覚醒させ、反射のように立ち上がる。それに伴ってさんも腰を上げた。

( Miranda )

 発動し始めのころとは明らかに調子が違った。どんなに精神を集中しても、意思に反して、取り去った時間がじりじりと近づいてくるのがわかる。もう限界なのかもしれない。リナリーが私の名前を叫んでいるけれど、それがどこか遠くのほうから響いてくるだけのような気さえする。今までのどんな重労働だって、こんなに苦しくはなかったのに。
 今さら理解した。イノセンスを発動させて、さらに戦うということが、どれだけ大変なのか。知らなかったとはいえ、出会ったばかりにもかかわらず安易に「助けてくれ」だの「どうにかして」だの、よく言えたものだと自分でも思う。けれど彼らは気を悪くするでもなく、むしろ真面目すぎるくらいに協力してくれた。イノセンス回収が本命ではあるだろうが、それでも、私個人のことまで細かく気にかけて、励まして。私はから預かったままのハンカチが入っている右ポケットのあたりを掴んで、もう一度、力を込めた。

 涙で歪んだ視界に、駆けつけてきたらしいとアレンくんが映った。自然と荒くなっていた呼吸で喉の奥が痛み、空気がそこを通るたびにヒューヒューと乾ききった音がした。それでもまだ酸素は足りなくて、頭がぐらぐらするし苦しい。
「ミランダさん、発動を停めて!」
私は首を横に振ってから目をそらした。口を開こうと、ほんの少し気を緩めただけで、吸い出した時間が群をなして寄ってくる。もしあれが彼らの体に戻れば、またみんな傷を負ってしまうだろう。せっかく役に立てたと思ったのに、それでは意味がない。初めて言われた「ありがとう」も、発動を停めたとたんに消えてしまうような気がした。

( Heroine )

 震えの止まらない両肩に手が置かれ、ミランダさんは弾かれたように顔を上げる。アレンくんは、発動の停止を渋っている彼女を優しく誘導するかのように笑んでいた。
「あなたがいたから、今、僕たちはここにいられる。停めましょ、ミランダさん」
 死ぬまでイノセンスを発動しつづけるなんて不可能なのだから、これ以上この状態を維持し続けても、それこそ何の解決にもならない。彼女の体が危険なだけだ。
 戦いに身を置いている以上怪我くらい普段から覚悟しているし、普通ならば倒れていたはずなのに、一時的に治癒されて通常どおり動けただけでも、もう充分に助かった。
 それに、傷は生きていれば癒える。
たちは平気だから。ね、お願い、停めて」
 しばらくの静寂のあと、体中の鈍い痛みとともにゆっくりと意識が白んだ。

 いつもそうだ、任務の最中は平気なくせに、終えたと思ったとたん波のように疲れが押しよせてくる。だからあんな、数が立派とはいえ、そう深くない傷なんかで気絶してしまったのかな。清潔でやわらかい布団に包まれたまま、は目をつむったまましばしの休息を満喫していた。たちを運び込んだときは騒がしかったのだろうが、今は早朝ということもあり、院内は、自分の呼吸が耳に届くほど静かだ。
 はこうして目も覚めているけれど、比にならないくらいの傷を負ったアレンくんや、神経にダメージをうけているリナリーは、きっとまだ意識を取り戻してさえいないだろう。三人中いちばんの古株のはずなのに、今までからは考えられないことばかり起こるせいか、あまり実力を発揮できていない気がする。あっさりとミランダさんごとノアに攫われ、そのせいで彼女の手のひらにひどい傷を負わせた。マテールでも一時的とはいえイノセンスを敵の手に渡してしまったし、神田に庇われた。
「なさけない」
自分へ言い聞かせるように、口に出した。
「あ。起きたんか」
無人のはずの室内から声がしたことに驚いた。その拍子にまぶたが上がり、ちょうど横を向いていたので、読んでいたらしい本から視線を上げたラビと目が合う。ご丁寧にイスまで用意して。いつからそこにいたんだろう。

 ラビはいつもどおりの団服で、読みかけの本にしおりも挟まず、すぐにこちらへやってきた。ページ数くらい自然に覚えているに違いない。あいかわらす羨ましいほどの記憶力。
、無茶しすぎ。すげぇ傷だったさ……あ。」
そこでは気づき、起き上がって口角をつり上げ、少し後ろ暗そうにしているラビを見上げた。さきほどとはうってかわって顔を強張らせる彼を見て、はこみ上げてくる笑いを抑え、むりやり、怪訝そうな表情をつくる。そして視線を鋭く。
「傷みたってことは……ふーん」
案の定、ラビは視線をさまよわせ、急に挙動不審になった。
「いやいや、決してそんなヨコシマな魂胆からでは……ちょっとあったけど」
でも見たのは鎖骨辺りまでさ! とか必死に自身を弁護しているラビがおもしろかった。瞳を見分するに、それは本当なんだろう。怒るどころか笑い始めたを見て、彼は、自分の焦りようをばかにされたようで少し悔しいのか、咎められなくて安心したのか、よくわからない顔をした。の予想では、安堵が八割。
「そ、それより“情けない”って、どゆこと?」
いきなり話題転換をしてきたことがさらにおかしくて、そのあともしばらく笑いの発作がおさまらなかった。けれどラビは気まずそうに頭を掻いたあと、急に表情を引き締めた。空気が変わる。こんな状況で笑っていられるほどは愚か者じゃないつもりだし、茶化して平然を装われるのを彼が望んでいないことも知っている。

 室内を満たすものが、笑い声から一気に静寂へと変わる。そして部屋の外もあいかわらず静かだった。まさかここまで真面目な空気になるとはさすがに予想外だったのか居心地悪そうに、けれどそれでもやはり真剣に、こちらの様子をうかがっている。ラビはの次の言葉を待っていた。
、どした?」
すぐそばをぽんぽんと軽くたたき、無言で「座って」と促す。
「最近、ヘマしてばっかりだなと思って。ぶじに帰ってこられるだけ幸運なんだろうけど」
本当は誰にも怪我をさせたくないし、ましてや死なせるなんて絶対嫌だし、人に庇われるのも嫌いだし。そのために強くなりたいとは思うけれど、頑張ってるはずなのに近ごろあまりうまくいかないし。自分の理想の、あまりの遠さに頭がぐらぐらした。
「実は、しっかり助かってるやつもいるんさ、が気づいてねェだけで」
そう言ってラビは一枚の紙を取り出した。二つに折りたたまれたそれは、メモ用紙か何かのようだった。

 あなたほど親身になって私の話に耳を傾けてくれた人、今までにいなかったわ。せっかく励ましてくれたのに相変わらず失敗ばかりしちゃってごめんなさい。でも今度会うときまでには絶対に変わってみせるから。いつか、あなたを支えてあげられるくらいになれたらと思います。本当に、ありがとう。
 あと、もうひとつ。私の怪我のこと、攫われてしまったことで自分を責めないでください。むしろ感謝しています。だってあれくらいの状況じゃなきゃ、きっとイノセンスの発動なんてできなかったもの。

「理想通りにはいかなかったのかもしれんけど、結果オーライだったのはの働きがあってこそだと思うぜ」
そう言ってラビはの頭を優しくポンポンと撫でた。冷え切っていた胸にじんわりと温かさが広がる。手紙をくれたミランダがこの場にいないぶん、この気持ちの行き場がすべて目の前の彼へ向かう。
「ありがと、ラビ」
腕を引き、突然のことでよろける彼の頬に軽く唇を押し当てた。ラビは赤面さえしなかったものの、しばらくのあいだ頬を押さえたまま動かなかった。

ネガティブ三割増。甘さも三割増。