night 15 : Scherzando


( Heroine )

 少女の視線がドームを滑ったのは、たった一瞬。のちの関心はすべてこちらに注がれていて、それからは背後に見向きもしなかった。再び上昇していく少女を見て、リナリーは首をかしげた。当然の反応だった。いまの今までずっと気を失っていたせいで、目覚める以前の、そして自分がいなかった場で起きたことはわからない。
 いつ相手が動き出すかわからない今、敵から長く視線を外すことはしない。リナリーは上空の少女を目で捉えたまま、すぐ右隣にいるアレンくんに尋ねた。
「アレンくん、あの子、劇場にいた子よね。アクマ?」
いっそ彼女がアクマであれば、今よりどれだけ楽な気持ちで戦いに望めただろう。しかし見分けられる目をもっているアレンくんが言うのだから、その情報に間違いはない。どんなに願っても彼女は人間。そのうえ実力も、目的も、感情もわからない。読み取れない。
「いえ、人間です」
心臓の音と、嫌な予感とが、どんどん大きくなっていくような気がした。

( Allen )

 細い指先が黒いもやの上で白い軌跡を残す。現れたのは、見慣れた五文字だった。
「ALLEN。アレン・ウォーカー。アクマの魂が見えるやつ」
ロードからそれがでてきたことに驚いた。名前はさんが何度も口にしたが、名字を叫んだ記憶はない。しかしその疑問はすぐに解消されることになる。
「じつは僕、おまえのこと千年公から聞いてちょっと知ってるんだぁ。あんた、アクマの魂救うためにエクソシストやってんでしょ? 大好きな親に呪われちゃったから」
ロードの口が柔らかに弧を描いた。
「だから僕、ちょっかい出すならおまえって決めてたんだぁ」
今まで見せてきた、人を嘲るようなどこか馬鹿にしたような、そんなものではない、あまりに優しい彼女の笑みに毒気を抜かれる。けれどそれはほんの一瞬のことだった。ロードの目には至極楽しそうな色をうかび、控えていたレベル2のアクマに向けられた。
「おいオマエ。自爆しろ」
言葉の響きと気楽な調子との奇妙なずれに僕は混乱した。敵の口から「自爆」という言葉を初めて聞いたのだ。遊びのような口調の中にも少しの真剣みがあって、冗談で言っているわけではないと知れる。指示を仰ごうと無意識のうちにさんへ視線を移すけれど、彼女もこんな事態に立ち会ったのは初めてらしい。リナリー同様、唖然としていた。
 宣告を受けたアクマ自身、まるで時間に取り残されたかのようにしばらく動かなかった。いくら上の者の言葉だからといって、突然「自爆しろ」だなんてすぐに受け入れられるものではない。
「傘ァ、十秒前カウントォ」
本人の返事も待たず、ロードはさっさと秒読みを開始させた。なんとか中断させようと掛け合うアクマだが、カサが機械的に読み上げる数字はどんどん小さくなっていく。
 カウントは半分にまで達した。ロードはさもアクマの声など聞こえていないかのように振舞う。決して取り合おうとはしない主の様子を見、彼はいよいよ必死になってきた。
「イノセンスに破壊されずに壊されるアクマってさぁ、たとえば自爆とか?」
泣きながら哀願するアクマの声を背中で受けながら、ロードは僕たちに話しかけてきた。
「そういう場合、アクマの魂ってダークマターごと消滅するって知ってたぁ?」
体がぎくりと強張る。今まで感じていた嫌な予感が、こんな形で的中してしまうなんて。
「そしたら救済できないねー!」
残り秒数は2。

( Heroine )

 ノアの声がエコーもなくすっぱりと消えた次の瞬間には、もう、アレンくんの姿は数メートルむこうだった。計算する時間がなくとも直感的にわかる。間に合うはずがない。
 追いかけようと足に力を込めるが、逆に腕を強く引かれる。自然と鋭くなってしまったの眼光に臆することもなく、リナリーは小さく微笑んで彼の後を追った。そうしてしばらくして気づく。足に重点を置くイノセンスを持つ彼女は適任だったと。

 半ば祈るような気持ちで見ていた。これほどの状況になるまで放っておいたのだから、せめて今だけでも助けてくれるだろうと、神に。

 爆風と同時に、というよりそれを利用する形で二人は中心部から逃れた。アクマの断末魔と大音量の爆音が鼓膜をびりびりと震わせる。部屋の中央から巻き起こる爆風は、そのあともしばらく止むことがなかった。焼け朽ちたアクマの体は表面からぼろぼろと崩れ、土埃にまみれて見えなくなる。だが、あたりが静かになっても、涙を流しながら叫んだアクマの最後の声だけは耳の中にしぶとく残った。

「くっそ……なんで止めた!」
ノアの甲高い笑いをアレンくんの声が遮った。しかしその矛先は笑い声の主ではなく、自身を助けたはずのリナリー。しばし呆けていただが、自らも助けに行こうとしていただけに少し居心地が悪い。けれど急いで駆け寄るより先に、頬を打つ小気味いい音。
「仲間だからに決まってるでしょ!」
リナリーは泣いていた。もう少しで仲間を失うところだったのに。すんでのところでなんとか助けることができたのに。感謝の言葉なんていらないから、せめて安堵くらいはしてほしかった。
 マテールで取り付けた約束は結局意味をなさなかった。駆け出すとき、少しでもそのことを考えてくれただろうか? けれど所詮は口約束。忘れられていてもしょうがない。

( Allen )

「スゴイスゴイ、爆発に飛び込もうとするなんてアンタ予想以上の反応!」
はるか上のほうでロードは憎いくらいに無邪気だった。高みの見物とでもいうように、自らは何もしていない。秒読みも自爆もなにもかも、ぜんぶ他がやったこと。
「でもいいのかなぁ? あっちの女のほうは」
気楽に動く指を目で追うと、差すほうには、時計のドームに向かっていくアクマたち。まずい、と地を蹴るより先に、さんの放った弾丸が最前列を吹き飛ばした。
 突然隊列を乱されたせいで動きの鈍るわずかな残りを、遅れて僕たちが一掃する。
「壊られちゃったか! ま、今回はここまででいいやぁ」
ふわりと地面に降り立ち、傘を肩に担いで帰っていく。仲間が殲滅されたとは思えない、軽い足どりだった。驚くほどあっさりした決着に、一瞬、思考が停止する。怪我もなければ疲労の色さえ見られない。本当に、散々遊んで満足した子どもの反応そのままだ。ようやく戦場から解放された安心よりなにより先に、彼女が憎くてたまらなかった。

( Heroine )

 銃口をノアの頭につきつけるアレンくん。しかしそのまま無音の間が流れた。
「優しいなぁアレンはぁ」
アレンくんは何もしゃべらずそして少しも動かなかったけれど、怒りのあまり体は意思に反して震えていた。ここから彼の表情は、見えない。対して、少女は避けるつもりも反撃する企みもないようだった。彼に話しかけて口角をつり上げている。それはただの純粋な子どもの笑みでは決してなく、彼が絶対に打つはずがないことをわかっていながら隙を見せ、迷っている相手を見て面白がっているのだ。噛み締めすぎた奥歯が悲鳴をあげる。
「僕のこと憎いんだね。撃ちなよ。アレンのその手も兵器なんだからさぁ」
そこまで言われても、押し当てられた銃口から弾丸が放たれる気配はない。彼は人間を殺すためにエクソシストになったわけではないのだ、いくら煽ろうがどれだけ待とうが、彼が少女を撃つとは思えなかった。これ以上は、彼が苦しむだけだと思った。

 見ていられなかった。足がゆっくり前に出る、もともと距離はそう離れていない、すぐにたどりつく。少女の笑みと好奇の視線を無視して腕を伸ばし、目の前の白を引き寄せた。
「もういいよ、アレンくん。もういいから」
準備も何もできていなかったアレンくんは少しだけバランスを崩した。涙の層を通過した驚愕の視線とのそれとが近距離でかち合う。彼は短いうちにすっかり弱っていた。
 には魂の形容も消える刹那も見えないけれど、それでも胸が痛くて痛くて、気づけば自分の頬にも雫の伝う感触があった。回した腕に力を込めると、構えていた銃口はゆっくり下ろされ静かに発動がとけた。
「でもアクマが消えて泣いちゃダメっしょー。そんなんじゃいつか孤立しちゃうよぉ」
は、床から迫り出してきた妙に凝った装飾の扉を睨みつけた。音もなく開いたその奥にノアは軽い足どりで消えていく。闇に溶け込んだ彼女が笑ってふり返った気がした。
 瞬間、地面ががくんと落ち込む。まわりの景色がでたらめの油絵みたいに捻じ曲がり亀裂が入る。時計の半球は知らぬまに消え去り崩れるような音をたてて地面が抜けた。

時計のおはなし、もうすぐおしまい。