night 13 : Delirante


( Heroine )

 腰が抜けてしまっているミランダさんに肩を貸し、さきほどたちがアレンくんを誘い出した場所まで連れて行った。いくら本人が現時点で気にしていないといっても、後になれば必ず後悔することになる。大の大人が往来のど真ん中で号泣だなんて、どんな妙な噂を立てられるかわかったものじゃない。
 店の裏でも彼女は泣き続けた。せっかく元気を取り戻してきたと思ったのに、今回は事があまりに大きすぎる。お皿を何枚割った、というささいなミスとは比べものにならない損害なのだ。いつになく出だしが好調だったぶん、よけいにショックは大きくなる。そのうえ店長の言葉が今までの失敗を掘り返してしまったようだった。
「なんで私ばっかりこうなのよ、なんで私の時計がイノセンスなのよ……っ!」
優しく背中を擦ってもハンカチを渡しても、ミランダさんの涙が止まることはなかった。ここまでくるともう、どうしようもない。は途方にくれた。
「へー、あんたの時計がイノセンスなんだぁ?」
知った声に顔を上げると、いつのまにか、チケットを探していたあの少女がすぐそこに立っていた。子ども特有の小さな白い手が、ミランダさんの首へ伸びる。そのときは「ミランダさんをどう励ますか」ばかりに気をとられていて、まだ少女の違和感には気づいていなかった。ほんの一瞬のことだったが、まるで他人ごとのようにその様子を見ていた。

 ミランダさんの体から力が抜けて地に倒れたところでハッとした。いま、少女は彼女に何をした? そもそも、イノセンスという言葉を発したときから警戒すべきだった。
「このひと殺されたくなかったら、おとなしくしててねぇ」
すぐそこに落ちていたショー用のナイフが、ミランダさんの青白い首につきつけられた。さきほどまでは微塵も感じることができなかったアクマの気配がうしろからどんどん近づいてくる。目の前の少女はを追い詰めて楽しんでいるのだ。ホルスターに手を伸ばそうとすると、それに比例してナイフの切っ先も肌へと近づいた。
 が銃を抜くのと、ミランダさんの喉が掻っ切られてしまうのと、どちらが早いか……そんな無謀な賭けに参加する勇気はない。そしてもうひとつの選択肢、イノセンスを守るために彼女を犠牲にするという考えはそのときのの中には欠片だってなかった。
 だからといって、おとなしくやられてしまうのも癪。いくら必死に頼みこんだって放してくれるはずがないのはわかっている、けれど「殺されたくなかったら」と取引を持ちかけてくるあたり、すぐに殺られるわけではなさそうだ。
「卑怯者。人質をとるなんて最低ね!」
アウトにならないぎりぎりのところで悪態をつく。それでも笑みをくずさない目の前の少女は、今まで見てきたどんな子どもよりかわいくなかった。
「アハハ、卑怯、ねぇ。フェアにやるんだったら最初から囮なんて使ってないよぉ」
売り上げ金を盗んだというスリ、そして犯人を追いかけていったアレンくんとリナリーの二人が浮かんだ直後、視界がかすみ、しだいに何も考えられなくなっていった。

 子どもの見る夢の世界だと思った。壁際に連ねられたぬいぐるみ、しゃべるカサ、宙に浮いたロウソク。しかしそれにしてはあまりに「黒」が多すぎる。そしてソファの脇にいる醜いアクマがせっかくの外観を台無しにしていた。
「やっと起きたんだぁ。どう、おめかしした気分は? すごく似合ってるよぉ」
アクマが運んできた楕円の鏡を見て呆然とした。少し体を動かすたび、鬱陶しいくらいに衣擦れの音がする。髪はアップでひとつにまとめられ、純白のドレスが体を覆っていた。
「ロードさま、そんなやつ綺麗にしてどうされるのですか?」
音波系アクマは以前傷を負わされたことをまだ根に持っているのか、歪んだ顔をさらにひん曲げていまいましそうにこちらへ視線を向けた。も負けじと睨み返し、鏡を持ったアクマを蹴り飛ばす。ストライプ模様のソファにどっかりと腰を下ろした少女は、たちのその一連のやりとりに腹を抱えた。薄暗い部屋の中に場違いな笑い声が反響する。
「おまえら兵器にはわかんないだろうねェ。エクソシストの人形だなんてレアだろぉ」
少女は目じりに浮かんだ涙をぬぐいながら、うっとりした表情でを見た。

 もがけばもがくほど両手を戒める手錠がきつく太くなっていくような気がした。もちろんそれはただの錯覚なのだけれども、動けないことに違いはない。運び込まれてきたアレンくんとリナリーが敵のいいようにされている光景をただ見ていることしかできないのがもどかしかった。なんとかしようと必死にあがくけれど、どんなに足を伸ばしても数メートル先に放られたイノセンスにはとうてい届きそうにない。わざわざ取り上げることをしなかったあの少女の、裏にひそんだ意地の悪さをあらためて思い知らされた。
「アレンくん、アレンくん!」
彼のイノセンスが壁に打ち付けられていく。とくに目立った拘束をされていないリナリーは、おそらくそう簡単には目覚めないということだろう。心は痛むが、少しでも可能性のあるアレンくんの意識を取り戻させることのほうが先決だと思った。
、さん?」
うっすらを目を開けた彼は、まだ今の状況がよく理解できていないように見えた。もう一度つよく彼の名前を叫ぶと、今度は表情がはっきりとし、すっかり固定されてしまった左腕にも力が入る。それを見て笑みを深くした少女がゆっくりと立ち上がった。
「きみは、さっきチケットを買いにきた……なぜアクマといっしょにいるんだ?」
アレンくんの言いぶりからして、少女はアクマではないらしい。レベル2たちを、しかも遊びのように統括しているくらいだからおそらく「普通」でないだろうとは思っていたけれど。
「僕は人間だよぉ、人間がアクマと仲よしじゃいけないの?」
は息をのんだ。今までに、これほど自らの耳を疑ったことはない。
「アクマは人間を殺すために伯爵が造った兵器だ、人間を、狙ってるんだよ?」
アレンくんが言った。少女の皮膚が褐色に変化し、額に十字の模様が現れる。
「兵器は人間が人間を殺すためにあるものでしょ?」
千年公は僕たちの兄弟。なんにも知らないんだねエクソシスト、おまえらは偽りの神に選ばれた人間なんだよ。僕たちこそ、神に選ばれた本当の使徒なのさ。
「僕たち、ノアの一族がね」

 彼女の言葉ぜんぶが脳の上をすべっていく。言っていることの意味が、わからない。
 ノア一族のことは過去に幾度か聞いたことがある。十数年も教団に身を置いていれば、多少は耳に入る、当然のことだ。けれど「偽り」のくだりは初耳だった。いつもならばそんな突拍子もないことなど、ただの冗談かハッタリだと処理してすぐに平常を取り戻せるのに。追いつめられたこの状況だからこそ、よけいに不安を掻き立てられる。
 ノアは壁に張りつけられたアレンくんの左腕から杭を抜き、対アクマ武器を自らの顔へと導いた。とたん打撃音が響き、役目をまっとうしたそれは少女の顔を吹き飛ばす。しかし皮膚が焼けただれたというのにノアは平然としており、それどころかアレンくんの胸倉をつかんで自分のもとへ引き寄せ、じっくり教え込むように言った。
「僕らはさぁ、ノアの遺伝子をうけつぐ人類最古の使途。おまえらヘボとは違うんだよぉ」
とつじょ振り降ろされた杭がアレンくんの左眼を大きく抉る。彼の声にならないうめきはノアの甲高い嘲笑に取り込まれた。
「僕はヘボい人間を殺すことなんてなんとも思わない。ヘボヘボだらけのこの世界なんてだーいキライ。おまえらなんて、みんな死んじまえばいいんだ」
投げ捨てられた杭は床とぶつかり転がりカラカラと音をたて、掠れた赤い軌跡をその上に残した。アレンくんのもとへ駆け寄ろうにも、鉄でできた戒めを素手で引きちぎるほどの怪力を身につけてはいない。あまりに暴れるので、いよいよ手錠が肌にくい込んできた。

 ノアはとアレンくん、両方の状況を見比べて口角を上げた。
「神だってこの世界の終焉を望んでる。だから僕らにアクマを与えてくれたんだしぃ」
「そんなの神じゃない、本当の悪魔だ!」
アレンくんは銃口に変化させたイノセンスをノアに向けた。こちらからでは死角になっていて表情さえ見えないものの、彼女が動揺しているようには見えない。爪で切り裂かれても平気なのだから一度や二度撃ち抜かれるのも同様、ましてやその前に避けることさえも造作ではない言うことだろうか。少女の口から、こらえきれない笑いがもれた。
「そんなんじゃ僕は殺せないよぉ」
「違う」
アレンくんの視線が一瞬、こちらを滑る。わずかに力を制限して放たれた光は、を戒めていた手錠を焼き切り、繋いでいた柱もあっというまに吹き飛ばしてしまった。
 崩れてきた柱を間一髪避け、地に放られたままのイノセンスをようやく取り戻して息をついた。ただの鉄輪と化した戒めが両手の先でジャラジャラと音をたてる。
「へー。まさかそっちを狙ってたなんて思わなかったぁ、でも」
ふいをつかれたというのにノアは悔しそうな表情ひとつ見せない。いつもどおりの子どもらしい笑みをはりつけ、挑戦的な瞳をこちらへ向けた。
「二人になったからって、僕は殺せないよぉ?」
まるで王へ従属する兵士のように、アクマたちは少女を覆い隠した。

 構える間もなく風切鎌の集団がアレンくんを襲う。満足に休むひまもなく戦闘続きだったのに加えて、片目を潰されたうえ、ここへくる前に受けた傷はまだ治りかけてもいない。ためらいも容赦もない機械との戦闘は、今の彼とはあまりに相性が悪かった。
「アレンくん!」
攻撃を全身へまともに受け、彼の体はぐらりと傾く。アクマの働きぶりを見て満足げな表情をしたノアは、地に伏せたアレンくんを確認してさらに笑みを深くした。あくまでもは人形なのだと言うことだろうか、ノアの視線はの表面をあっさりと滑り、次はおまえだと言わんばかりの目がミランダさんを捕らえる。敵の調子は遊びのような感覚だが、こちらの状況はかなり深刻だった。
「おまえもそろそろ解放してやるよ」
ノアが右手を上げると、それに伴って先のとがったロウソクがまるで生き物のように宙へ集まる。説明などなくとも、次の瞬間に何が起こるかは誰にだって安易に予想できた。ひゅっ、と小さく、息をのむ音。ミランダさんの痩せこけた細い肩が大きく揺れた。

タイミングを逃したため、ロードの名前が出てこないという。