night 12 : Pesante


( Heroine )

 時間ばかりが過ぎていく。とっくに休憩時間は終わってしまっただろうが、ミランダさんはうつむいたまま立ち上がろうとしなかったし、そんな彼女を急かすつもりもなかった。今、彼女はいったい何を考えているんだろうか。忘れたくても忘れられない、いつまでも続く失業記録、数え切れないくらいの失敗、何度もくり返される十月九日。
 周りはイノセンスの存在や奇怪になんて微塵も気づかないし、「今日」に違和感を感じることもない。そんな彼らに相談を持ちかけたって、非現実的な、と笑われるに決まっている。三十回も同じ日を迎えながら、けれど誰にも言えず、気付いたところで自分の力じゃどうにもならないからそれに従うしかない。
は、ミランダさんのほうがずっと強いと思うわ」
「えっ、わ、私が!?」
彼女の声は少し裏返り気味だった。細い瞳がいつもより見開かれていた。
「失敗はともかく、今まで百回も諦めなかったのはすごいことよ」
もしだったら、その半分すら頑張れないだろう。両手の指で足りなくなっただけで、すぐに投げ出してしまうかもしれない。ましてや、誰の助けもなしに乗り越えるなんて不可能に近い。彼女の肩を優しく叩いて、立ち上がる。
「さ、休憩時間も終わったし、午後もがんばろう?」
そのままミランダさんはまたお皿を割ってしまったのだけれど、いつもの彼女とは違い、どこか晴れ晴れとした顔をしていた。

 新しい働き先はすぐに見つかった。アレンくんに大道芸の経験があったことも手伝って、今日からすぐに雇ってもらえるそうだ。彼はもちろん入り口付近で客寄せをしていて、それに惹きつけられてきた子ども、さらにその親たちへ、脇にいるミランダさんがパンフレットを配っていく。チケットは飛ぶように売れ、店長からの評判も上々。営業成績がよければ正社員にしてくれると言っていた。
 とリナリーはちょうど休憩に入ったアレンくんを店の裏に誘った。ショーに使う小道具大道具、紙切れと化したチラシが地面をうめつくしていて、どこかの司令室を思わせる。
「そういえば、リナリーっていつごろ教団に入ったんですか?」
舞台用のボールに乗ってうまくバランスをとっているかぼちゃ人間からアレンくんの声がするのは妙な感じだった。

「私は、物心ついたときにはもう教団にいたの」
 両親をアクマに殺された孤児だったリナリーは、ダークブーツの適合者だとわかってひとり教団に連れて来られた。
 入団当初、彼女はまるで珍しい生き物かなにかのように扱われていた。「貴重なエクソシストだから」と一日中部屋に閉じ込められ、気が狂って自らを傷つけないように全身を固定され。部屋に赴いて何度か話したことがあったけれど、いつも泣くか黙り込むかで笑った顔なんて一度も見たことがない。教団の関係者はみんな敵だというような顔をしていた。
 三年が経った。少しは話をしてくれるようになったけれど、口をついて出るのは弱音ばかりで家に帰りたいと言っては泣いていた。そんなときだった。そうめったになれるような地位ではないだろうに、彼女の兄が、科学班室長として現れたのだ。いつも泣いてばかりだったリナリーが歳相応の笑顔を見せるようになるまで、そう時間はかからなかった。
「すごいなあ、コムイさん……いつもはアレだけど」
かぼちゃ頭のアレンくんは鼻声で言った。自分の兄をほめられて嬉しいリナリーは頬を紅潮させて照れくさそうに笑う。本当に、あのころからは考えられないくらいの成長ぶりだ。
「うん。だから私は兄さんのために戦うの」
兄弟愛にすっかり心打たれたアレンくんはそのあともしばらく感動の涙を流していた。

( Allen )

 いつもの彼女からは想像できないくらいの壮絶な過去だった。もしもこのことを知っていたらあんなに軽々しく聞く勇気などなかっただろうと思うけれど、最終的には「感動するいい話」で終わったのだし結果オーライというべきか。
 ミランダさんの手伝いにむかうリナリーを見送る。僕には兄弟なんていないけれど、今回の件で、コムイさんの異常なまでの妹愛が少しだけ理解できたような気がする。そして、この流れだと、さんも過去のことを話してくれそうだと思った。
「あの。さんはいつごろ教団に」
「ねぇ、休憩中くらいそのかぼちゃとろうよ」
そういえば。無駄に頭は重いし視界は悪いし、喜ばせる対象の子どももいないこんな場所でこれをかぶる利点なんてひとつもない。僕がかぼちゃを脇に置いたことを確認し、しばらくしてさんは膝を抱えてその上に顔を伏せた。
もね、孤児だったんだ。そして歳の離れた兄弟がいた」

 ある日、だけがイノセンスの適合者だとわかって教団に連れて行かれた、ここまではリナリーと同じ。でもね、ひとつだけ違うことがあった、そしてそれが致命的だった。彼、弟が幼すぎたの。当然、適合者でもない、体力も知能も発達していないただの子どもなんかに入団許可がおりるはずがない。……ゆいいつの家族がいなくなって寂しかったんだろうね、彼がアクマとして発見されたのは、が教団にきた翌日のことだった。しかもどういう巡りあわせか、の初任務はの故郷。どれが弟かわからないまま、気付けばいつの間にか戦闘は終わってた。

( Allen )

 膝に顔を押し付けているせいで声がくぐもってはいたけれど、途中でためらうことも泣き出すこともなく、むしろどこか淡々と、他人の話でもしているかのようだった。もう何年も前のことだ、すっかり気持ちの整理はできているのだろう。けれど、いくら決着がついているといっても笑って茶化せるほど軽いものではなかった。
「ごめんね、リナリーみたいにハッピーエンドじゃなくて。こんな暗い話」
「いえ! むしろ、嬉しいです」
そこで僕はハッとして、あわてて言葉を付け加えた。
「あー、なんていうか、さんにちょっとは信頼してもらえてるのかな、って思えて」
辛い過去を話すのは、本当に相手を信じられると確信してからでいい、と彼女は以前言っていた。それは裏を返せば、いま僕が彼女に信頼されているという証でもある。顔が勝手にどんどん熱くなっていくので、脇に置いていたかぼちゃを急いでかぶった。熱がこもる、視界が狭まる。でも、赤く染まった頬を見られるくらいならこんなの、まだ、ましだ。

 と思っていたのだけれど。それをつけてからというもの、さんが一向にしゃべらなくなってしまった。僕が言いたかったことはちゃんと伝わったんだだろうか? まだまだ言葉が足りていないような気がしてならなかった。そもそも、彼女が僕に心を開いてくれているんだという確信自体が間違っているのかもしれない。「深い話をするのは相手を信頼できてから」というのは相手側がさらけだす場合だけのことであって、彼女から話すぶんにはまったく関係ないのではないか。それとも、勝手にかぶってしまったこの頭のせい? どうせもう赤みもひいてしまっただろうし、いっそのことまた外してしまおう、と、かぼちゃに手をかけたときだった。
「えーと。、けっこう前からきみに心許してたんだけどね?」
突然のことだったので、抜けかけだったかぶりものが手からすり抜けて、再び暗闇が戻ってきた。視界がまた狭まる。肩とかぼちゃとがぶつかり、中で小さく反響した。
 どうやら僕たちはお互いの言葉が予想外だったらしい。
「あんまりこういうこと話さなかったのは、アレンくんが気にすると思ったからだよ」
何をと尋ねるより先に、一人の少女に呼びとめられた。カボチャと魔女のチケットってどこで売ってるの、と気の抜けた声の彼女に対し、僕はせいいっぱいの営業態度で応える。背後をちらりと気にすると、さんは「後半もがんばって」と言って苦笑した。

( Heroine )

 彼が路地を抜けたか抜けないかというときだった。大通りのほうから店長の怒鳴り声が聞こえ、まわりの雑音が嘘のように静まり返った。騒ぎのあった場所へ急ぐと、円形に集まった従業員達の中心にミランダさんがいた。
「売り上げ金をスリに盗られただと! バカヤロウ!」
息巻く店長と軽蔑の視線を向ける従業員たちにぐるりと囲まれた彼女に駆け寄って、事のあらましを簡単に聞いた。犯人の追跡は二人へ任せる。リナリーは上から、アレンくんは下から。憔悴しきったミランダさんを一人にはしておけなかった。
 地にへたり込んだ彼女へ、店長は顔を赤くしてがなり立てる。上から降ってくる容赦ない言葉は、傷心している彼女にはあまりにもキツすぎた。自分でも情けなさや申し訳なさ、不甲斐なさを十分にわかっているのに、まるでそれを抉るように罵倒を投げつけるのだ。
「役立たず」
自分の思考がミランダさんに寄ってしまっているのは承知しているが、止められなかった。立ち上がり、追い打ちをかけようと口を開きかけた店長と対峙する。
「いま、二人が犯人を追っています。必ずお金は戻ってきます!」
続けようとしたところで、団服の裾を弱々しい力が引っぱった。
「いいの、、もういいの」
盗られた私が悪いんだから。掠れた声でそう言ってミランダさんは往来のまん中で泣き崩れた。

時計のお話も、終盤に近づく。