night 11 : Melancolia


( Heroine )

 半壊してしまった酒場をあとにして、先程のアクマがそこらを徘徊していないか街を見回ることにした。いつどこでまた迷子になるかわからないのでアレンくんを一人にしておけないが、彼は右足を負傷していたはず。このまま連れまわしてしまうのも考えものだ。
「アレンくん、火傷は大丈夫なの? つらいならいったんミランダさんの家を探して治療したほうがいいわ」
見たかぎりでは足を引きずっているわけでも苦しがっているわけでもないけれど、そんなものは意志次第でなんとでもなる。放置していたせいで悪化、なんて嫌だ。
「ぜんぜん平気ですよ。ちょっとしみるけど、ちゃんと歩けますし」
僕は大丈夫ですからそれよりはやく見回りましょう、そう言ってアレンくんは笑った。その様子からすると、たしかにケガは心配するほどのものでもなさそうだ、でも。彼はいつも自分より周りを優先する、一人でなんとかしようとする。そのせいでいつか彼がどうにかなってしまうんじゃないか……自分と考えかたが似ているだけに、そう考えると怖かった。

 街の人たちは、何度も十月九日をくり返していることもさきほど大きな戦闘があったことも知らず、まるで何ごともなかったかのように暮らしていた。あまりにめまぐるしい場面展開だったので、この平和な空気に少しのとまどいを感じる。あれほど殺意を剥き出しにしていたはずのアクマの姿はどこにもなく、それがいいことでもありなんだか不気味でもあった。
「でも、やっぱりさすがだなぁさん、あんな数を相手に無傷だなんて。僕、これでもけっこう体力つくってるんだけどな」
たしかにイノセンスの使い方にも慣れてきたようだし、最初の頃にくらべて身のこなしも格段によくなった。あれほどの数を相手にするのはまだ早いにしても、一対一ならば問題ないだろう。腕を曲げ伸ばししているアレンくんは見ていて微笑ましい。
「あはは。体格イコール強さってわけでもないからね、エクソシストなら尚更」
そういうも暇さえあれば体づくりをしているような仕事馬鹿なのだけれど。
「でも、そういえばちょっとたくましくなったね、努力の成果かな?」
以前の体格に合わせて作られているはずなのに、成長期ということもあいまって、少しだけぶかぶかだった団服がジャストサイズになっているように見える。出会ってから三ヶ月しか経っていないのだから、あくまで「気がする」程度だけれども。
「ホントですか!?」
とたんに瞳が輝きはじめ、見回りをしていることさえも頭の中から吹き飛んでしまったみたいに喜ぶアレンくん。素直でかわいいなあと和みながら、その後も見回りを続けた。

 酒場の周辺をひととおり歩いてみたものの収獲らしい収獲はなく、アクマらしき影を見つけるどころか逆に街ののどかさを改めて実感しなおしただけだった。街の人たちはあいかわらずいつもどおりに「今日」を過ごしていて、まるで自分がおかしな幻覚を見ているんじゃないか、というミランダさんが抱いた不安もわからないでもない。はやいところ事件を解決して、彼女を少しでも楽にしてあげたいと思った。
 あまり良い噂ではないのが気の毒だが、ミランダさんはこのあたりでは少し名が知れているらしく、そのおかげというべきか情報を聞き出すのは至極簡単で、一度道を聞いただけで彼女の家にたどり着くことができた。ドアをノックすると、困ったような安心したような、なんともいえない表情のリナリーが顔を出した。
「無事でよかった。おかえりなさい」
 家の中に入り、ケガの治療のためにさっそくアレンくんを適当なイスに座らせる。ブーツを脱がせてズボンの裾をたくし上げると、皮膚は痛々しいほど赤黒く変色していた。よくここまで我慢したものだ、歩くたびに服と擦れて痛かっただろうに。負傷して帰ってくることなど予想済みだったのか、リナリーがどこからか救急箱を持ってきた。
「ありがと。ちょっとしみるけどガマンしてね、アレンくん」
 ティムキャンピーが患部をしっぽでつつくものだから、思ったよりも治療に時間がかかってしまった。できるだけ優しくしていたのだけれど、その刺激にはさすがのアレンくんも小さくうめき声を上げた。

 すっかり静かになってしまったせいで、今まであえて触れないでいた音がはっきりと聞こえるようになった。部屋の隅から聞こえるすすり泣き。
「何してんですか、ミランダさん」
アレンくんはコートを羽織りながら大きな柱時計へ視線を移した。
「私達とアクマのこと説明してから、ずっとあそこで動かなくなっちゃったの」
 ミランダさんは死にかけたような顔をしてひたすら静かに時計を磨いていた。しかしエクソシスト三人の視線を感じたのだろうか。私は何も知らない、なぜ私が狙われなければいけないの、もう何もかも嫌、言いたいだけ吐き出してミランダさんはとうとう泣き崩れてしまった。前にも思ったが、いろんな意味で感情の起伏が激しい人だ……いや、こんな奇妙な事件に巻き込まれれば誰だっておかしくなってしまうのかもしれない。すっかり日も暮れて昼間の喧騒が嘘のように過ぎ去っていたはずなのに、穏やかだった部屋内で彼女の嗚咽と叫び声が反響した。
「私、は何もできないの! あなたたち、すごい力を持った人たちなんでしょう? だったらあなたたちがこの街を助けてよ!」
たちは途方にくれてしまった。ひとえに助けると言っても、原因がわからないのだから動きようがない。まずはミランダさんと奇怪との関係を調べなければ。
 そのときだった。彼女が、へたり込んでいた床からとつぜん立ち上がったのは。目はただただ前を向いていて、驚いたアレンくんは後ろにのけぞった。まるでからくり人形のように機械的な動きで、無言のままベッドに歩いていく。
「み、ミランダさん、寝るんですか!?」
眠くなったにしては突発的すぎるし、彼女が自分だけ勝手に休むとは考えにくかった。
「何か様子が変ね……アレンくん!」
リナリーの声で、部屋の異常に気づいた。床、天井、壁、家具、空間全体に様々な形をした時計の模様が浮き出ていて、その中心では古時計が十二時を告げている。生き物のように模様がうごめき、ゴーン、ゴーン、と鳴り続ける時計を中心に、吸引力のようなものが働き始めた。いきおいよく逆回転を始めた時計の針。こぞってそこに向かっていく模様の中に、今日の町並みや人々の様子、そしてたちが見えた。その場に立っていられず、ミランダさんのベッドにしがみつく。
 時計はあっというまにすべてを吸い終え、気がつけば窓から日の光が差し込んでいた。

 時計の針は午前七時を指していた。遠くで街の人たちが活動を始めている。立ち上がってから眠りにつくまでの記憶が飛んでしまったミランダさんは、ベッドの上で体を起こしたまましばらく状況を把握できずにいた。彼女の様子がとつぜんおかしくなったのもイノセンスの力のせいで、影響を受けないのは外部から入ってきたたちだけのようだった。
 本当の十月九日、ミランダさんは百回目の失業ということでそうとう心も体もまいっていた。夜あまり眠れないし日々に楽しいことなんてひとつもないし。あまり評価されなかったとはいえ自分なりに頑張った、というか頑張りすぎてしまった荷物運びの重労働のせいで腕はジンジン痛い。クビなんて今までに何度も経験してはいたのだが、さすがに三桁ともなると悲しみもひとしおで、酒瓶片手に愚痴をこぼしていたという。「明日なんて永遠に来なければいいのに」。
「それだ! たぶん、時計がミランダさんの願いをかなえちゃったんですよ!」
記憶をさかのぼって回想していたミランダさんは、びっくりしてティーカップを取り落としてしまった。床にぶつかったそれは粉々に砕け、破片はテーブルの下にまで届く。慌ててほうきとちりとりを持ってきたけれど、彼女の手つきはどうも危なっかしかった。
 彼女が時計の適合者だということはわかったけれど、狂ってしまった時間をもとに戻す方法を見つけることはできなかった。イノセンスがミランダさんの「明日なんて来なければいい」という願いをかなえたならば、それをやめさせるよう頼めば奇怪は止まるはずなのだけれど。いくら真剣に頼み込んでもどんなに丁寧に時計を磨いても、時間はいつまでたっても十月九日のまま。その日はずっと解決策を考えるだけで一日がすぎてしまった。
 山の稜線に飲み込まれて太陽が見えなくなったとき、アレンくんがぽつりと言った。
「もしかしたら、」
イノセンスはミランダさんの強いマイナスパワーに惹かれた。彼女の思考が前向きになれば、奇怪は止まるかもしれない。

 そのままなにもしない日々を過ごしていてもしょうがないので、次の日から、たちはアレンくんの言葉を信じてミランダさんを前向きにさせる作戦にとりかかった。まずは職に就かせることが先決。求人しているところを探し、三件目でようやく採用にこぎつけた。
 ミランダさんが六枚目のお皿を割ってしまったので、怒りで顔中を赤くした店長に「集中力が欠けている」と怒鳴られ、臨時の休憩時間をもらった。店から出ようとすると、今度また何かしでかしたらすぐにやめてもらうからな、という言葉がうしろからついてきた。
 裏口のドアは少しだけ錆びついていて、捻ると小さく嫌な音がした。表の通りからずいぶん入り込んだところにあるらしいこの路地は、本当に言葉どおり、何もない。町の中心に近いというのが信じられないほど静かな場所だった。見るものといえば正面のレンガの小さな崩れ目と、すぐそこの袋小路のところにあるごみばこだけ。
 踏み石の二段目に腰を下ろして、そのひんやりとした感触に身震いをした。
「……あなたはいいわよね、なんでもできるし、綺麗だし。それに、とっても強いもの」
それに比べて私なんか、と言って自らの両手を見つめ、ミランダさんは体中の憂鬱を寄せ集めたように大きなため息をついた。遠くではアレンくんが客集めをしていて、大通りの騒がしさがそこへ一気に集中している。比べて、ここは薄暗い店の裏口。まるで、たちのいる場所が街から切り離された空間のように感じた。

さん・リナリー・アレンはホール、ミランダさんは厨房で手伝い。