night 9 : Giocondo


( Heroine )

 昨日のままカーテンはぴったりと閉じてあるけれど朝日は月光の比ではなく、その薄い布をいとも簡単に透かしてベッド上のたちを照らした。全身が窮屈だ。団服を着たまま眠っていたから、いや、身体に回されているこの腕のせいでもあるだろう。
 年下のはずなのに、彼は軽々との力を押さえ込めることができる。起き上がりたくて腕からすり抜けようとするけれど、相手は未だに夢の中のはずなのにびくともしない。彼の上着のポケットをまさぐる。指先に当たった、布とは明らかに違って硬質な感触。
「起きて、ラビ。イノセンスがポケットに入ったままだけど、渡しに行かなくていいの?」
「っ、そうだった!」
跳ね起きたラビに伴って、ようやくも体を起こすことができた。
「なによ起きてるんじゃない。狸寝入りなんて趣味が悪いわよ」
「だってこんな機会めったにねェし、どうせなら思いっきり堪能しとこうと思ったんさ」
「そんなの、イノセンスの保護よりも優先すること?」
手ぐしで髪の毛をすきながら、力の緩んだ彼の腕からするりと抜け出した。無造作にブーツを履いて窓へ向かい、その薄桃の布をわざとらしく力いっぱい開くと、あまりの眩しさに目がくらむ。目覚ましにはちょうどいい刺激だったらしく、うしろからラビの小さなうめき声が聞こえた。
「はぁ。昨日の頼もしいラビくんはどこにいったんだろう」
おおげさなくらいにわざとらしく大きなため息をついてみる。けれど、あんなことがあったばかりなのにちゃんとを立ててくれる彼には感謝してもしたりない。表面ではお姉さんぶって世話好きなふうを装っているが、やっぱり内面は助けられてばっかりだなと今回の件で再確認させられた。

 軽くシャワーを浴びて再び団服に着替え、乱れた布団をきれいに整える。時間がないしお腹もすいたので髪は適当に乾かした。イノセンスをヘブラスカに届け終わってから律儀に部屋の外で待っていたらしいラビは、ちゃんとおつかいをこなした子どもみたいに誇らしげな顔をしていて、おかしかった。
「わぁ、ちゃんとイノセンス届けられたのね、えらいえらいラビくんは偉い」
「子ども扱い……俺もう18なのに!」
の目の高さよりも幾分か上にあるふわふわの紅色をなでてやると、ラビは拗ねたように頬を膨らませた。思考はおそろしく大人だけれど、やはりこういうところは幼く見えてしまう。そしても、甘えてしまいそうになるのをこらえて極力みんなの力になろうと役に立とうと努力する。
 その装飾すべてが嘘だとは言わないけれど、本心かと聞かれれば、即答はできない。まるで二人とも、マテールで出会ったアクマのように、仮の皮を纏っているみたいだと思った。

 アレンくんが教団にやってきて、三ヶ月。もうずいぶんと規則や任務には慣れたようで、ほとんど古株たちと変わらないほどの働きぶりを見せている。タイミングが合えばできるだけ一緒に食事をとる、なんていう暗黙の約束がたち二人の間にできていたりして、少しだけれど教団生活が変わった。
 けれど朝の食堂の騒がしさとジェリーの明るさはいつもどおり。軽快な料理の音とみんなの談笑が部屋の中を満たしていた。ここにくると、一気に目がさめる。
「ミートグラタンとティラミスとダージリンティーね。サラダはおまかせ」
「ぼくはみそラーメンとビーフハンバーグと天津飯、フリッタータに」
アレンくんがいつものように膨大なメニューを一息で注文すると、ジェリーは嫌がるどころか、むしろ一段とやる気を増したようだった。料理人として、このつわものの期待にこたえることへやりがいを感じているんだろう。
 テーブルに並べられたお皿の数は、ゆうに十人前を軽く超していた。細身の少年がテーブルひとつをまるまる陣取っているその光景は明らかに異様。すみのほうに、ちょこんと、のお皿たちの集団がある。
「アレンくんの頼むメニューって、こだわりも何もなくておもしろいよね」
「ふぉうへふは(そうですか)?」
イタリアンでそろえたとは違い、アレンくんの朝食は言うなれば「世界の名物寄せ集め」、といったかんじ。そして彼の豪快な食べっぷりを見ていると、どの料理もふだんより美味しそうに感じてしまうから不思議だ。

 テーブルいっぱいに広げられた料理たちは残り三分の一になっていて、アレンくんのすぐ横には、積み上げられたお皿の山。まだ食べ始めてから数分しかたっていないはずなんだけれど。がようやくミートグラタンを食べ終わったところで、タイミングを計ったかのようにアレンくんが口を開いた。
「まえから気になってたんですけど、どうしてダイエットやめちゃったんですか?」
そしてまたローストチキンをほおばり始め、それでも視線はこちらに向けたままの返事を待っている。なんて器用なことを。
 最初にアレンくんと朝食をとったときは、簡単なサラダと野菜ジュースだけだったことを思い出した。あのときは、二つ前の任務のことで少し落ちていたから食欲があまりなかった、それだけのこと。一から説明するのが大変だから、ダイエット中なの、だなんて言いふらしていたっけ。
 この沈黙を違う意味にとったのか、アレンくんは急にあたふたし始めた。
「あの、べつにさんがスリムじゃないとかそういうんじゃなくて、むしろ、きれいだし、え、と、ただ最近妙に元気みたいだからそれと何か関係あるのかな、とか思って。でも、やっぱり女性にこういうこと聞くのは失礼ですよね、すみません!」
テーブルに両手をついて額がぶつかりそうなくらいに前傾したアレンくん。食堂じゅうの視線がたちに集中していて、経緯は異なるにしろ、誰かさんの入団当初に勃発したあの騒ぎのときみたいだなと思った。
「うん、べつに気にしてないから。それよりほら目立っちゃってるよ。ね?」
 なんとかアレンくんの誤解をといたころには、いつのまにか周りの視線も元どおりになっていた。料理はあと残すところティラミスだけ。アレンくんは本当に味わっているのか怪しいくらいのスピードでデザートのみたらし団子をたいらげてしまった。
さん。朝食がすんだら僕といっしょに司令室に来てくれ、ってコムイさんが」
それでも席を立たずに待ってくれているということは、一緒に行こうという無言のメッセージなんだろうか。先に行って資料でも見ていたほうが有意義な気もするけれど、嬉しい。
「アレンくん、ここ、ついてる」
口の端についていたみたらし団子のたれをぬぐってあげているあいだ、彼の視線は泳ぎっぱなしだった。

「たぶんね、たぶんあると思うんだよね、イノセンス。といってもたぶんだからね、たぶん」
コムイの周りに漂う、なんとも気の抜けた空気。そのあとも何度かたぶんが続き、アレンくんとリナリーは呆れ、ジョニーが本の雪崩に押しつぶされた。静かな司令室にこだまする、断末魔の叫び。今ならこの部屋の中で遭難だってできそうだ。
「コムイ、あなたもうちょっと自信持ったらどうなの。今までだってぜんぶ的中させてきたわけじゃないんだし、一度や二度ハズレでも文句言ったりしないから」
「常々思ってたんだ、君にはボクへの優しさが足りないって。ようやくわかったんだね!」
たしかに彼に対してあまり優しくした記憶はないが、そこまでぞんざいに扱ったつもりもない。そんなふうに思われてたんだ、と少しだけ驚いた。
「さいきん働きづめなんでしょう。そんなときに労わってあげないほど悪人じゃないわよ」
まるで死んだようだった彼の目に、少しだけ輝きが甦った気がした。

 少しだけ元気を取り戻したコムイの話によると、今回の目的地は「巻き戻しの街」。時間と空間がとある一日で止まっていて、その日を延々と繰り返している。しかし捜索部隊はその街の中へ入ることさえできないという。もしこれがイノセンスの奇怪であれば、同じものを持っているエクソシストなら中へ入れるかもしれない。しかし入ることができたとしても出られないかもしれない。エクソシスト単独の、時間のかかる任務だと言っていた。
 汽車に揺られて数時間。そこから少し歩き、ようやく巻き戻しの町へとやってきた。レンガづくりの建物に、背の高い街灯、舗装された道路。町の周りを囲む城壁と城門は立派だが、中はいたって普通の街だ。適当に範囲分担を決め、すぐに調査へ取り掛かった。

 しかし思ったような収穫はなく、すっかり日も暮れてしまった。城壁を壊して外へ出ようとしてみたが、コムイの言ったとおりこの事件を解決するまでは不可能みたいだ。人気のない路地をひとり、歩く。アクマが潜んでいるかもしれないという少しの緊張感はあるが、おばけや幽霊の存在には怯えたりしない。もしが普通の女性だったなら、こんな暗い場所に一人でいること自体、怖くてたえられないんだろうな、なんて思いながら。そのとき、ブーツと床とがぶつかる音が二重に増えた。どんどんこちらに近づいてくる、走って。
さん! あの、このあたりで、女の人、見かけ、ませんでしたか!?」
すぐそこの角から飛び出してきたアレンくんは、息を弾ませながら走り寄ってきた。とアレンくんの担当は、北と南。正反対のはずだ。
「なんでアレンくんがここにいるの! 手分けして探そうって言ったのに」
「それより女の人です、まっ黒い服を着た、黒髪の女性なんですけど」
いっこうに聞く耳を持たないので、とりあえず見ていないことを正直に告げると、アレンくんはがっくりと肩を落とした。今までの疲労が押し寄せてきたような彼を引っ張って少し歩き、ちょうどいいところにあったベンチへ誘導する。

 しばらくすると息も落ち着いてきたようだ。アレンくんの話によると、黒い服で黒い髪をした女の人をアクマが取り囲み、彼女に向かって「イノセンス」と言っていたらしい。しかし戦闘を終えてみると女性は消えていて、彼女が逃げていった方向だけを頼りに彼なりの勘で追いかけた結果、案の定、見失ってしまったというわけだ。
「その疲れようを見ると、女の人に逃げられてから結構時間がたつんでしょう、今から追いかけても遅いわよ。どうせこの街からは出られないだろうし、また明日探そう?」
ただの単純な追いかけっこならば二対一ということもあり捕まえられるかもしれないが、極端に情報が少ないうえに、建物の中へ入られでもすると探しようがない。彼もそれを察したのか、すぐに納得してくれた。
「でも、女の人を見かけたのは自分の担当範囲だよね。なのになんでここにいるの?」
アレンくんは気まずそうに視線を逸らし、じっと地面をみつめた。口を開くまでにかなりの間があった。
「道に迷って、そのままさまよってたらいつのまにか……」
いつのまにか、で済まされるほどこの街の北と南の端は近くない。彼の方向音痴には何か、神がかり的なものを感じる。アレンくんに一人歩きをさせては、いけない!

巻き戻しの街なだけあって、時間軸が複雑。