night 5 : Vibrato


( Heroine )

 それが神田の血だとわかったのは、朦朧としていた意識が猛烈な痛みのせいではっきりしてきてからだった。弾かれた六幻は地面に突き刺さっており、アクマの巨大な左腕が神田を壁に押さえつけている。は重傷を負う寸前に、彼によって庇われたのだ。
「神田ッ! なんで、」
「お前が馬鹿みてぇにボケっとつっ立ってるからだろ」
だってエクソシストだ、いくら女でも常人よりは遥かに丈夫にできているという自信がある。ケガをすれば痛みを感じるのは当然だが、そう簡単には死んだりしない。ましてや神田は、いくら皆が言っているほど冷徹ではないといっても、他人のために自らを犠牲になんて考える奴ではないはずだ。
 足の力が抜けて倒れそうになったところをアレンくんに支えられた。壁へ叩きつけられたときに打ってしまったのだろうか、妙に頭がくらくらする。こめかみ辺りに手を這わせてみると、生温かくぬるっとした感触を指先に感じた。そして左腕にもぱっくりと大きく傷口が生まれており、真っ赤な鮮血が滴り地面に水溜りをつくっている。
 不気味な笑みを浮かべるアクマの鋭い爪が、神田の腹部を深く抉った。まるでそこだけがスローモーションにでもなったような感覚。
「神田!」

 アレンくんの一撃がアクマを吹き飛ばし、たちはその隙にその場から離れることに成功した。呼吸はしているものの、なんかとは比にならないほど出血した神田は完全に意識を失っている。そしてたちを抱えてくれているアレンくんもまた、平気とは言えないくらいの傷を負っていた。トマを含めた三人分の体重を支えているため満足に進むことができず、荒い息遣いばかりが聞こえてくる。
「アレンくん。ね、は大丈夫だから。みんなと違って意識もあるし、」
「でも足元ふらふらじゃないですか」
確かに、出血が多すぎたのか頭がぼーっとするし力も入らない。でもアレンくんだって無傷ではないし、ましてや自分よりも大きな人間を三人も支えるなんて無茶だ。こんな華奢な体のどこにそんな力があるのだろうか、自分たちの体重が今にも彼を押しつぶしてしまいそうで気が気ではない。
「怪我してるアレンくんに迷惑かけるほうがよっぽど辛いわよ」
「そんな、迷惑だなんて」
そのときどこからともなく聞こえてきた美しい旋律。それはどこまでもよく響き、疲労したたちの心を微かに癒した。すっかり廃墟と化したここに人が住んでいるわけがない。恐らく先ほどいなくなってしまったグゾルたちがそこにいるのだろう。

 はなんとかアレンくんを説き伏せ、彼のうしろを自力で歩いた。本当は神田かトマを引き受けてあげたかったが、さすがにそこまでの体力は残っていない。重そうに足を引きずるアレンくんのうしろ姿は見るに耐えないくらい痛々しかった。
 角を曲がるといよいよ歌声が鮮明に聞こえるようになった。見ると、辺り一面に広がった砂の上にグゾルが腰をおろしている。しかし歌っているのは彼ではなく、少し離れたところにいる長い髪の少女だった。それが今までグゾルと一緒にいたあの子どもだということは考えなくても直感的にわかった。そして。
 たちの気配にでも気づいたのか、歌うのをやめてグゾルと抱き合っていた少女は、弾かれたように勢いよくこちらへふり向いた。
「あ、ごめんなさい。立ち聞きするつもりはなかったんですけど、」
アレンくんは気まずそうに謝るが、少女はこちらを警戒していてあまり効果はない。
「キミが人形だったんですね」
まるで何かのスイッチが入ってしまったかのようだった。少女は近くにあった石柱を無造作に掴み、ろくに振りもつけずに投げつけてきた。イノセンスを使用した人形だからなのだろうか、ものすごい強肩だ。間一髪避けたが、周りには石柱などいくらでもある。逃げ回っているうちに残り少ない体力も尽き、無惨に押しつぶされてしまうのがオチだろう。話し合いで解決しようとアレンくんが必死に和談を持ちかけるが、そうとう気が立っているのか少女は聞く耳を持たない。
さんはここでじっとしててください、僕がなんとかします!」

 たちを安全な場所へと運んでくれたアレンくんは、手袋をはずし、狙い狂わず向かってきた石柱を発動させた左手で受け止めた。まさかそんなことが起こるとは思っていなかったらしく呆然としている少女めがけて投げ返す。しかし急激な回転をかけられたそれは少女の横を通り過ぎ、ブーメランの要領で周りの石柱を破壊してから、ふたたびアレンくんの手元へと戻ってきた。
「もう投げるものはないですよ」
勝負はついた。もはや少女がアレンくんに勝てる要素は何一つ残っていない。
「お願いです、何か事情があるなら教えてください。可愛いコ相手に戦えませんよ」
困ったような顔のアレンくんを見て、少女はすっかり戦意を喪失したようだった。
「グゾルはもうじき死んでしまうの。それまで私を彼から離さないで。この心臓はあなた達にあげていいから…!」

 団服の下に着ていた薄手のタンクトップを引き裂き、包帯代わりとして左腕の傷口を塞ぐ(コートのボタンをはずし始めたとたんアレンくんはものすごい勢いで視線をそらした。神田の治療をしている彼の頬はおもしろいくらいに真っ赤だった)。止血効果のある薬どころか薬草もない状況だが、このまま血を垂れ流し続けるよりは遥かに効果があるはずだ。神田の治療を終えたらしいアレンくんは、右手と口を使って器用に布を巻いていくを感心したようにじっと眺めている。
「アレンくん。服、脱いで」
「っえ!?」
びくっと肩を震わせて頬をほんのり赤くしたアレンくんの声は妙に裏返っていた。
「布が余ったから治療してあげようと思ったんだけど。なにを考えたのかな?」
口の端を上げて顔を覗き込むと、アレンくんは気まずそうに視線を泳がせた。
「ここもいつまで安全かわからないわ。ケガしてるんでしょう、右肩」
や神田ほどではないにしても、放っておけば治るというレベルをじゅうぶんに超えた傷を負っている。シャツに染み込んだ血の量を見れば一目瞭然だった。

 自主的に鍛えているのだろうか、思っていたよりもたくましい身体には一瞬惚けてしまった。神田がモヤシなどと言うからすっかり華奢なのだと思い込んでいたが、戦いに不利にならない程度にはしっかりしている。
さん、どうしたんですか?」
手を止めたのを不思議に思ったのか、アレンくんはきょとんとした顔でふり向いた。
「なんでもないわ。ほら、ちゃんと前むいて」
両頬を手で挟んで強制的に前を向かせ、彼の左肩に視線を移した。血はいくらか固まってきているが、切り裂かれたとかいう、そんな生易しいケガではない。むしろ何かで貫かれたと言ったほうが正しいだろう。腹が立ったので、少し強めに布を巻く。
「いだっ! 何するんですかさ、」
「なんで一人で突っ込むの! あんな行動は危ないってことくらいわかるでしょう! がケガしちゃったのもぜんぶアレンくんのせいよ、ぜんぶぜんぶぜーんぶ!」
久しぶりにこんな大声を出した、というくらいに一息で叫びきった。巻き終わった布の端を結んで、これ見よがしにそっぽを向く。
「そ、そんなぁ」
彼の弱々しい呟きを最後に、辺りは静寂に包まれた。
 しばらくそのまま待ってから、こっそりうしろをうかがうと、アレンくんの頭はがっくりとうなだれていた。任務達成前にエクソシスト全員が満身創痍という悲惨な状況なのに、笑いがこみ上げてくるのを抑えきれない。
「うそよ」
アレンくんが勢いよく顔を上げた。驚きに見開かれた瞳の中に、かすかな安堵感が含まれているように見える。あまりにわかりやすすぎる彼の反応が可愛い。
「無事でよかった、ほんとに。」
その後、これからは勝手に個人行動をとらないという約束を取り付けた。

 昔、ひとりの子どもがマテールで泣いていた。彼は村の人間たちから迫害され、亡霊が住むと噂されていたこの都市に捨てられたのだ。たび重なる暴行のせいで心身ともに弱りきっており、それに加え大人でも近づかないような薄暗い廃墟にひとりきり。まだ年端もいかない子どもがそんな状況で平気なわけがなかった。
 まるで彼の泣き声が呼び寄せたかのように、毛むくじゃらの亡霊が駆け寄ってきた。ひび割れた目に、くすんだ肌。しかし子どもは臆する様子もなく、むしろ自分の他に人がいたことが嬉しいのか、醜い傷だらけの顔で潰れたように笑った。――人間に造られた快楽人形は、人間のために動くのが存在理由だった。しかし人々はいつしかそれに飽き、ついには土地を捨てて外界へと移住していってしまった。残された人形は五百年ものあいだ、ふたたび人間に必要とされる日を待ち続けていたのだ。人間がマテールに迷い込むことは幾度かあったが、ふたたび存在理由を与えてくれたのは、彼だけだった。
「あの日から八十年。グゾルはずっと私といてくれた」
その場にいる者がみな、ララの話に耳を傾けていた。
「グゾルはね、もうすぐ動かなくなるの。心臓の音がどんどん小さくなってるもの」
いくら心が通じ合っていても、人間と人形の差をうめることはできない。イノセンスで永久に動き続けるララとは違い、人間であるグゾルには寿命というリミットがあるのだ。確実に近づく、グゾルの死。
「最後まで一緒にいさせて」
それは、普通で考えればあまりにもささいで当たり前なお願いだった。
「最後まで人形として動かさせて!」

「だめだ」
久々に彼の声を聞いたような気がした。しかし内容はとても厳格なもので、彼が意識を取り戻したことを素直に喜べるような状態ではない。けれども神田の言っていることは正論で、迷うまでもなくそれがエクソシストとしての正しい判断だった。
 レベル2のアクマが近くを徘徊しているというのにエクソシスト全員が負傷、という危機的状況の中で、イノセンスの保護よりも情を優先するのはあまりにも無謀すぎる。には、神田の言わんとすることが痛いほどわかった。
「俺たちはイノセンスを守るためにここまできたんだ。今すぐその心臓を取れ!」
「……と、取れません」
他人を助けるためには多少の危険もいとわないアレンくんと、あくまでも任務遂行を目的として動く神田。対照的だがそのどちらにも、共感できる部分がある。アレンくんの心は、ララの願いをかなえたいという気持ちと、エクソシストとしての意識とのあいだで揺れ動いているようだった。

「ごめん、僕は取りたくない」
神田は自分の下に敷かれていたコートを無造作に掴み、アレンくんめがけて投げつけた。そして自分のものを羽織ると、傷の痛みもまだ消えていないだろうに、彼はふらついた様子もなくしっかりと立ち上がった。ララの喉元に突きつけられる、鋭い刃先。そのとき、の中で何かがはじけた。
も」
とつぜん口をついて出た声は、妙に震えていた。
「彼らの希望を尊重したい。何年もエクソシストやってきてるくせにいまさらそんな甘いこと って思うかもしれない。でも、」
主が死ぬまでそばにいたいと願う人形。身体は まがいもの でも、心がないわけじゃない。
は、大事な人がいなくなるのがどんなに悲しいか 知ってる」

ほんとうに、このお話は切ないなあとあらためて思った。