night 3 : Tranquillo


( Allen )

 司令室へ入ったとたんに神田と目が合い、思いっきり嫌そうな顔で睨まれた。僕は視線を彼からそむけて愕然とした。散らかっているというレベルではすまされない、科学班の実態がそこにあった。床が書類で埋もれている、いや、書類の上にソファの足が乗っているのだから意図的に覆い隠しているんじゃないかと疑いたいくらいだ。壁には十メートル近くありそうな本棚がずらりと並んでおり(そびえ立つという表現の方が似合う気がするのは気のせいだろうか)、デスクの上にはコムイさんが妙な体勢で突っ伏している。リーバー班長はコムイさんの肩を揺さぶるが、ンゴーといういびきが聞こえるだけで起きる気配はない。強く殴ってもあいかわらずコムイさんは眠りつづけていた。
「リナリーちゃんが結婚するってさー」
リーバーさんが耳元でそうささやくとコムイさんは何かに憑依でもされたかのように勢いよく起き上がり、リナリーの名前を叫びながら滝のような涙を流した。
「悪いな。このネタでしか起きねェんだ、この人」
僕の中で「コムイさん=変な人」という公式が定着しつつあった。

 室内に一つしかないソファへ腰掛けると、リナリーから今回の任務に関する資料を渡された。裏表とも黒い装丁の、厚さ二センチはある分厚い冊子だ。
「さて、時間がないのであらすじを聞いたらすぐ出発して。詳しい内容は今わたした資料を行きながら読むように」
と、いうことは。横を向くと、同じことを考えたのであろう神田と目が合った。
「ふたりコンビで行ってもらうよ」
恐れていた宣告に、僕たちは言葉を失った。こめかみがぴくぴくと引きつるのがわかる。今日の朝に起きた例の件は、コムイさんの耳に入っていないのだろうか。
「え、何ナニ、もう仲悪くなったのキミら?」
まるでおもしろいものでも見ているようにしばらくコムイさんの顔はイキイキとしていたが、ひととおり茶化したところで真剣みをおびた表情になった。
「でもワガママは聞かないよ。南イタリアで発見されたイノセンスがアクマに奪われるかもしれない。早急に敵を破壊し、イノセンスを保護してくれ」

 塔の地下には水路が流れており、ここから船に乗って目的地に向かうらしい。てっきりあの崖をロッククライミングのように降りていくのだと思っていた僕は少し安心した。船に乗る前にコムイさんに呼び止められ、コートのような形状の団服を手渡された。よく見ると、やはり神田のものとも微妙に異なっている。感心しながら袖を通してみると、少しブカブカだった。
「へー、なかなかサマになってるわよアレンくん」
さん! なんで……」
すると、いつのまにかいなくなっていたリーバーさんが階段を駆け下りてきた。ふだん運動らしい運動をしていないのだろう、膝に手をついて肩で息をしている。
「さっき急いでリーバー班長に呼んできてもらったんだよ。キミたち二人があまりに険悪なムードだから、仲裁役」
そう言ってコムイさんはにっこりと笑った。変な人を装ってはいるが、やはり科学班室長というだけあって頭の回転が早いらしい。そのおかげで、あいかわらず仏頂面をしている神田の雰囲気が、わずかに緩和した気がする。そのとき、さんの団服の胸元から何かが勢いよく飛び出した。
「ティムキャンピー! どこ行ってたんだお前、というかそんなところから……」
さんの周りを何度か飛び回ったあと、ティムはようやく僕のところへ戻ってきた。特に会話も何もしていないはずなのに、すっかり彼女に懐いてしまったみたいだ。
「ティムキャンピーには映像記憶機能があってね、キミの過去を少し見せてもらったよ。だから徹夜しちゃったんだけど」
岸と船とをつないでいたロープがはずされ、僕たちの乗った船はどんどんそこから離れていく。最後のほうはあまりよく聞こえなかったが、それでも僕を気づかってくれたということはわかった。船は明かりひとつない暗闇の中へと進んでいく。
「いってらっしゃい」
確実に岸から離れていっているはずなのに、なぜかそれだけは鮮明に聞こえた。
「いってきます」

 古代都市マテール。今は無人化したこの町に亡霊が棲んでいる。調査の発端は、地元の農民が語る奇怪伝説だった。亡霊は、かつてのマテール住人。町を捨てて移住していった仲間たちを怨み、その顔は恐ろしく醜やか。孤独を癒すため、町に近づいた子どもを引きずり込むと言う。

 目的の駅はまだ遠いということだろう、スピードが落ちる気配のない汽車はものすごい速さで線路を疾走している。上空からそれを眺められる機会なんてめったにないが、見とれているひまはない。あれに飛び乗ることが目下の課題なのだ。大きく振りをつけ、つかまっていた鉄の棒から手を離すと、足元に汽車の天井が迫ってきた。着地と同時に勢いよく身体が叩きつけられたが、教団特製のコートのおかげか痛みはまったく感じなかった。
「困りますお客様! こちらは上級車両でございまして、一般のお客様は二等車両のほうに……ていうかそんなところから、」
突然進入してきた僕たちを見て、乗務員さんはどうしていいものか戸惑っている。当たり前だ、停車さえしていないこんなときに運賃も払わず天井から現れたのだから、ここで平常を保っているほうがおかしい。しかし黒の教団と聞き神田の団服を目にしたとたん乗務員の態度は一変し、部屋の手配をするためだろう、あわてて奥へ走っていってしまった。
「なんです今の?」
「あなたがたの胸にあるローズクロスはヴァチカンの名においてあらゆる場所の入場が認められているのでございます」
まるで取扱説明書でも朗読しているかのように滑らかな説明だ。まさか耐衝撃性の他にもそんな効果があったとは知らず、僕は素直に感心してしまった。

 さすが上級車両というだけあって、座席がソファのようなつくりになっている。部屋内のあちこちにある装飾も一つ一つが丁寧にデザインされており、もし窓から見える景色が流れていなかったらここが汽車の中だということを忘れていただろう。ファインダーのトマさんは部屋の外で待機していて、僕の隣にはさん、目の前には神田がいる。わずかな時間も無駄にはできないため、僕たちはコムイさんからわたされた資料に静かに目を通していた。さん同行の決定は急なものだったので、僕の資料を二人で見ることになった。

「ところで、なんでこの奇怪伝説とイノセンスが関係あるんですか?」
汽車を追っているときに聞きそびれた質問を話題に出すと、神田は嫌そうに顔をゆがめて小さく舌打ちした。めんどくせ、という呟きも心なしか聞こえたような気がする。
「おい、お前が説明してやれ」
そこまで嫌なのかと反論したかったが別に神田の解説を強く所望しているわけではないし、むしろ彼の刺々しい物言いよりもさんの声のほうが好きなのでいろいろと好都合だ。僕のまわりを飛んでいたティムがようやく頭の上に落ちつく。
「イノセンスはね、ノアの後ずっと海底に沈んでいたの。でも不思議な力が導くのか人間に発見されて、いろんな姿に変化して存在していることがある。そしてそれはなぜか、必ず怪奇現象を起こすのよ」
今度はさんの左肩へと移動した。
「じゃあ、マテールの亡霊はイノセンスが原因かもしれないってことですか?」
「ええ、奇怪な事件の起こる場所にはたいていイノセンスがあるわ。だから教団はそういう場所を手当たりしだいに調べて、可能性があると判断したらエクソシストをまわすの。軽く捜査もしているし、そこにイノセンスがある確率はかなり高いわ」
そこに在るだけでも影響を及ぼすほどのエネルギーがあり、適合者が持てば対アクマ武器とも成る。今までなにげなく所持し使っていたイノセンスだが、まさかそれほどまでに力のあるものだとは考えていなかった。僕は自らの左手をあらためてまじまじと眺めた。そのとき、さんは資料のある一点を見つめて動きを止めた。

 岩と乾燥の中で劣悪な生活をしていたマテールは、神に見放された地とされていた。絶望に生きる民たちはそれを忘れるため、人形を造ったのである。踊りを舞い、歌を奏でる快楽人形を。だが結局、人々は人形に飽き、外の世界へ移住していった。置いていかれた人形はそれでもなお動き続けた。五百年経った、今でも。
「マテールの亡霊の正体が、ただの人形だったなんて……」
汽車を降りると同時に、僕たちは町へ向かって一斉に走り出した。こうしているあいだにもアクマの被害は確実に広がっているはずだ。乾燥し荒れ果てた地を蹴りながら隣を見やると、さんは痛々しいほどに沈んだ表情をしていた。僕もかなりのショックを受けているが彼女ほどではない。なにか事情でもあるのだろうかと気になるが、こんな状況で話すほど軽い話題ではないし、なにより時間がなかった。
 突如全身を襲った悪寒。特別気温が低いわけでもないだろうに、なぜだか言いようのない寒気を感じた。聞いていた話ではファインダーが何人か先に向かっているはずだったのだが、人の気配がまったく感じられない。妙な耳鳴りと、肌に感じるぴりぴりとした風の感触が心地悪かった。
「トマの無線が通じなかったんで急いでみたが……殺られたな」
神田は静かにそう言って小さく舌打ちをした。その時ひときわ強い風が吹き、辺りの砂塵を攫っていった。さんは何もしゃべらない。流れる髪の隙間からのぞく頬に、一筋の透明な雫が伝ったのを僕は見た。

前回に引き続き、アレン視点。シリアスは筆が進むのが早いと気づく。