tune 22 : ゆりかご


 食器どうしがぶつかり、カチャカチャという音だけが耳にとどく。今日はいい天気だからさっき干した洗濯物がはやく乾くだろうな、と思うと少しうれしくなった。いつもベタベタとくっついてくるかイスに座って甘えた声で話しかけてくるハウルも、王様に何かを頼まれたらしく、しかもそれが期限つきということでずいぶん前から部屋にこもってしまっている。けれどわたしのことは忘れていないらしく、洗い物が終わったらすぐに部屋においで、と優しく声をかけてくれた。
「やばいぜ、雨雲が空をおおいはじめてる」
カルシファーの、せっぱつまった声が聞こえた。
「まさか。だって、ついさっきまで快晴だったんだよ」
そう言いながらも心配になって窓を開けてみると、さきほどまでのまぶしい陽の光はどこにもなくて、くすんだ色をした重々しい雲が、澄んだ青空を塗りつぶしはじめていた。とたんに、外へ干していた洗濯物が脳裏をかすめ、わたしは急いでドアへ走った。

 雨が地面を激しく叩き、飛び散った泥水が足元まで迫ってきた。空は濁った雲にすっかりおおわれていて、どんよりとした色が視界の大半をうめつくしている。アマガエルの鳴き声もどこからか聞こえ始め、ついさっきまで静かだったリビングを一気に喧騒が襲った。暴風の中ではためく洗濯物たちはすっかりびしょ濡れになっていて、周りの薄暗さを吸収してしまったかのように色あせて見えた。
 すぐに取り込もうと足を踏み出した瞬間、空が発光し、その後すぐに爆発音に似た轟きが鼓膜をビリビリと振るわせた。とたんに腰が抜け、わたしはぺたりとその場にへたり込んだ。どうしたんだよ、というカルシファーの心配そうな声が遠くのほうから聞こえるような気がする。ふたたび空にまばゆい亀裂が走り、さきほどよりは少し規模が下がったものの、それでも十分な大きさの雷鳴が辺りに響いた。
 視界が潤み、体の震えが止まらなくなった。ザアザアという雨音が消してくれなければ、微かな嗚咽さえも聞こえていたかもしれない。

 ゆっくりとした動作でなんとか立ち上がり、力の入らない手でドアを閉め、ふらついた足どりで上の階へと続く階段をのぼった。力ないノックをすると、部屋の中から優しい声がかかって、いっしゅん、全身の力がぬけそうになった。
、入っておいで」
名乗ったわけではない、声をだしてさえいない、なのにハウルはわかっているらしく、あたりまえのようにわたしの名前を呼んだ。すぐにでも部屋にかけこみたい衝動に駆られたが、手に力が入らずドアノブをうまく回せない。いつまで経っても入ってくる気配のないわたしを疑問に思ったのか、ハウルがこちらにちかづいてくるのをドア越しに感じた。なかば寄りかかるようにしていたドアがゆっくりと開かれ、わたしは支えを失ってハウルの胸に飛び込んだ。
「っと。どうしたんだい、身体が震えてる」
ハウルは穏やかな声で問いかけながら、わたしの背中を優しくさすってくれた。こらえきれなかった涙がほほを伝って、ハウルの上着に吸い込まれていく。力がぬけて動けないわたしを軽々とかかえ、後ろ手でドアを閉めてソファに座ると、ハウルはわたしをひざのうえに乗せてくれた。
「雷が鳴って、それで昔のことを思い出して、怖くなったの。母さんが急に変わっちゃったのも、こんな日だった」

 母さんが以前ここに来た日、平気な顔で対応して、何も気にしていないふうで見送ったけれど、本当はちょっと期待していたんだ――ずっと心配なんてしていなかったとしても、わたしに会ってから少しでも気持ちが変わって、急に愛してくれたりしないだろうか。でもそんなに都合よくいくのはのはしょせん夢の中だけだと彼女の目を見てわかった。そこにはわたしなんて映っていなかったんだ。あんな人でも一応はわたしの母親だ。予想も覚悟もしていたというのに、そのときのショックは今でも忘れられない。
「もし母さんみたいにハウルがいなくなっちゃったら、て思ったの。ハウルはそんなことしないってわかってるのに、雷が鳴ったとたんに不安になって……」
わたしの頭をなでながら、ハウルは黙って話を聞いてくれた。
「ハウルはとつぜんいなくならないよね、ずっと一緒にいてくれるよね?」
わたしは、すがるように彼の瞳を見た。いつになく真剣な視線が返ってきたかと思うと、すぐにハウルは冗談っぽく笑った。けれどそれは、ごまかしたりはぐらかそうとしているようなものではなくて、まるで、そんなのはあたりまえだとでもいうような余裕の笑みだった。
「ぼくは雷なんかに負けたりしないさ。なんたって、あの、魔法使いハウルだよ」

 わたしはしばらくハウルのひざのうえに座ったまま、彼の胸に体をあずけていた。雨が窓を叩いて音をたてるし、アマガエルの合唱はいっこうに鳴り止まない。ときおり外の景色が発光してゴロゴロと雷が轟くたび、わたしは肩を震わせてハウルの首にしがみついた。どこにも行かないと固く約束をしたとはいえ、やっぱり、怖いものは怖い。
「やっぱり雨はいや。空は青いほうがいいもん」
ハウルの肩口にこれでもかというほど顔をうずめているので、わたしの声は妙にくぐもっていた。
「ぼくは好きだけどな、雨」
ハウルはわたしの髪の毛をいじりながら気楽にそう言った。
「ジメジメするし、洗濯物は干せないし、気分が滅入るし。どこがいいの?」
なかばヤケになって愚痴るように言うと、ハウルはわたしの両肩をつかんで少し体を離し、ひたいに小さく音をたててキスをした。火照ったおでこに、冷たい唇は、気持ちがよかった。
「雨がやんだら、きれいな虹がでるよ。いっしょに見よう?」
そのとき、またどこか遠くで小さく雷が轟いた。驚いてハウルの首に腕を回すと、彼はわたしをまるで何かから守るようにぎゅっと抱きしめてくれた。それからは、いくら雷鳴が聞こえても、わたしの心臓が跳ね上がることはなかった。ハウルは腕の力を緩めずに、優しく髪をすいてくれた。
「うん、雨もたまには、いいかもしれない。だって、わたしからハウルに甘えられるもん」
ハウルのぬくもりと、いつのまにか小ぶりになっていた雨音のメロディに包まれて、わたしはゆっくりと目を閉じた。

ハウルのおかげで雨を少し克服、というお話。