tune 21 : キラキラ


 ぼくにはお父さんやお母さんとの思い出がない。物心ついたときにはすでに捨てられていて、いつのまにかハウルさんの家の前で呆然と立ち尽くしていたのが、ぼくの一番古い記憶だ。まるで転がりこむようにして入ってきた赤の他人を、ハウルさんは文句ひとつ言わずに家へ置いてくれた。しかし、それは周りにさして興味がないから放っておいただけだったんだ、と知ったのは後のこと。でもどちらにしろ、ぼくにとっては天の助けに違いなかった。
 何ヶ月も暮らしていると、さすがに話をしないわけにはいかなくなる。なるほど、魔法使いというだけあってかなり変わった人のようだったけど、話してみると案外優しい人だった。ハウルさんは、いつまででもここに置いてやるとは言わなかったけど、出ていけとも絶対に言わなかった。そしてぼくはそのまま住み続け、いつの間にか彼の弟子になっていた。

 目を開けると、カーテンの隙間から微かに光が差し込んで、が飾ってくれたスズランの花瓶がそれをキラキラ反射していた。耳をすませると、城の住人を起こさないように、静かに階段を下りていく音が聞こえる。まだみんなが起き出すのには早い時間帯だけど、足音の主はいつも一番に早起きをして朝ごはんの準備をするんだ。珍しく早くに目が覚めてしまったぼくは、(たぶん)カルシファーとおはようのあいさつをしているに早く会いたくて、急いで靴を履いた。

 階段を下りるとちゅうに、はぼくに気づいてしまった。うしろから脅かそうと思ってたからちょっと残念だけど、がにっこりおひさまみたいに笑ってくれたから、やっぱり嬉しい。カルシファーは新しい薪を貰ってごきげんで、ぼくもをひとりじめできるからごきげんだ。
「おはよう!」
「うん、おはよう。今日は早起きなんだね」
ピンクのエプロンをつけたはなんだかお母さんみたいで、抱きつくとすごくいい匂いがするんだ。お母さんというものがどんな存在なのか、ぼくはあんまり知らないけれど、それでもちょっとだけ、わかるような気がする。きっと、すごくあったかいんだ。
「ぼく、手伝うよ!」
「わぁ、ありがとう、マルクル。でも先に顔を洗ってから。ね」
いつもはハウルさんがにべったりくっついていて、話をしてても割り込んでくるけど、今だけはぼくがひとりじめだ。ぼくは急いで顔を洗ってきて、から預かった野菜を冷たい水につけた。

 がかき混ぜる鍋からスープのいいにおいが漂って、それに引き寄せられるみたいに、ヒンとおばあちゃんがダイニングにやってきた。ソフィーも起きだして、の手伝いをしようと白いエプロンをつけている。ドアの外でも、町の人が起きだしているみたいで、ザワザワという音と、あと、小鳥のさえずりが耳に届いた。でもあいかわらずハウルさんは部屋で寝ているみたいで、上の階からは物音一つ聞こえない。またが起こしにいくのかな、そう考えると、なんだかくやしいような気持ちになった。
「ぼく、ハウルさんを起こしてくる!」
「うん、ありがとう。でももし起きなかったら言ってね、わたしが行くから」
はスープの味見をしながらそう言って、にっこり笑った。よし、に頼らなくてもいいぐらい、あっというまに、ねぼすけハウルさんを起こしてみせるぞ。ぼくは一段飛ばしで階段をのぼった。

 ドアを開けると、ハウルさんの安らかな寝息がかすかに耳に届いた。布団はあんまり乱れていなくて、ねぼすけなわりには寝相はいいみたいだ。窓から差し込んだ光がハウルさんの髪に反射していて、少しまぶしい。そういえばずっと前に、が、日の当たるところで寝ているハウルさんの、金色の髪のキラキラが好きだって、言ってた。ぼくの髪の毛は金色じゃないから少し残念な気持ちになって椅子に座って足をぶらぶらさせていたら、マルクルの髪のキラキラも好きだよ、て言ってくれた。ぼくにとってはその時のの笑顔のほうがキラキラしてて、おひさまみたいに、ううん、おひさまよりももっともっと、まぶしいなって思ったんだ。
 ベッドに近づいても、ハウルさんはいっこうに目をさまさなかった。ときどき小さく寝返りをうって、ぼくの師匠をしているときの偉そうな態度からは考えられないくらい、まるでちっちゃい子供みたいに見えた。いびきもかいていないし、寝言も言わないし、もしこれで寝返りさえもうっていなかったら、死んでいると思って大騒ぎしていたかもしれない。

「ハウルさん、朝ごはんの時間ですよ、起きてください」
「ん……」
ゆさゆさと肩を揺らしてみるけれど、ハウルさんは小さく唸るだけだった。それにうっとうしそうに眉根を寄せていて、もう少し寝かせろ、と無言で訴えかけているようにも見える。でもここで諦めたらが忙しくなるんだ、ぼくが起こさなくちゃ。
「もう朝ですよ、早く起きないとに嫌われちゃいますよ」
まさかそんなことはないと思うけど。
「ん……
「っぅわ!」
突然視界が真っ暗になって、一瞬にして体を何かがおおった。ハウルさんに抱きしめられているんだと気づいたのは、ハウルさんが寝言でという名前を連呼し始めてからだった。いつもハウルさんを起こすのはの仕事だから、今日もが来たんだと思ってだきついたんだ。未だにぼくのことには気づいていないみたいで、ぼくはだんだん呼吸が苦しくなるのを感じた。
「ハウルさん、ぼく、じゃないです……くるしい」
はいつもこんな大変な思いをしてハウルさんを起こしているのかな、これはもしかしたら、城中を掃除することよりも忙しい仕事かもしれない。バタバタともがいていると、部屋のドアをゆっくり開く音が聞こえた。目を開けても見えるのはハウルさんの胸元だけで、誰が入ってきたのかを知ることはできないけど、それでもぼくはすぐにわかった。

「ハウル、なにしてるの!」
が、まるで異質なものでも見たような声を上げて、ゆっくりとこっちに近づいてくるのがわかった。実際、この光景は異様だと思う。年は離れているけれど、男同士が抱き合っているなんて、自分でも気分が悪い。いくら相手が自分の師匠でも、こういうことはぜったいに、金輪際、心から御免だ。
「ああ、、おはよう。今日も愛してるよ」
ハウルさんはぼくからパッと手を放して、の腰を引き寄せて唇にキスをした。は少し怒っているみたいなそぶりを見せているけれど、まんざらでもなさそうだ。
 どうせ身動きが取れなくなるほど抱きしめられるなら、ハウルさんなんかよりものほうが、何倍も何倍もよかったのに。朝からとても憂鬱な気分だ。ハウルさんがぼくを抱きしめたのは、騒ぎを起こしてをおびき寄せるためだったのか、それともぼくを鬱な気分にさせるためだったのか、本当に寝ぼけていたのか。でも、をベッドに引きずり込みながら、ハウルさんが意地悪そうな笑みをこっちに向けていたから、意図的な犯行だったことは間違いない。ぼくは、朝日を浴びてキラキラ光る仲睦まじい二人を後にしながら、ハウルさんのスープに唐辛子を入れてみようかなと考えていた。

やってしまったマルクル視点。