No.163 : Rest


 はビノールトの皮膚まで数センチのところで拳を止めたかと思うと、そのままぐらりと横に倒れた。ついに全てを使い果たしたらしい。
「勝負あったな」
したり顔でキルアが言った。はあえて打撃を寸止めしただけで、もしあのまま勢いを殺していなければ確実にビノールト側がダウンしていた。現状はどうであれ、は勝ったのだ。
「やったね、!」
ゴンは勢いよく駆け寄り、倒れているの腕を優しく引き上げる。体を起こしたは自身の右手をじっと見つめたあと、小さく息を吐き、気の抜けた笑みを返した。
「えへへ、お待たせしました……」

 自分の身に起こるであろうこれからの出来事を悟ったビノールトは、膝を折り、こうべを垂れた。
「……もういい。オレを殺せ」
当初の約束などすっかり忘れていたは彼の潔さにギョッとして肩を震わせた。元はと言えば彼が自分たちの命を狙ってきたのが事の発端である。しかし、それでもには彼にとどめを刺す覚悟など到底持てそうもなかった。
 血の気の失せた顔で縋るようにゴンを見ると、彼はニイと笑みを見せた。そして清々しい笑顔でビノールトと向き合う。
「ビノールトさんありがとう。おかげでオレたち、すごく上達しました!」
そう言ってゴンはウイングたちから継承されたあの構えを取ってみせた。
「押忍!」

 結局、あらかじめ取り決めていたビノールトの処分は取り止めとし、彼が自ら提案した「ここを出て自首する」という言葉を信じることとなった。ただの口約束ではあるけれど、その宣言を疑う者は誰もいない。出会ったばかりの頃はともかく、敗北を悟ってからの彼の瞳は別人のようにまっすぐだったのだ。

▼ ▼ ▼

 再び四人になったゴンたち一行は、今度こそ本格的にマサドラを目指して出発する、はずだった。
「それじゃ、これからマサドラへ……と言いたいとこだけど」
そこまで言うと、ビスケは半眼での顔を見つめた。
「あんた、もうすでに限界みたいね」
「……すみません」
は気まずそうに視線を落とした。やせ我慢でごまかすという選択肢も浮かんだが、そのまま隠し通せる自信などない。強がる余裕すらないほどはあらゆる面で消耗していた。ビスケは小さくため息をつく。
「仕方ないわさ。ただでさえ少ないオーラをあれだけ消費してたらね」
ビスケの言葉にキルアは首をかしげた。
「そんなに使ってたか?」
ビノールトとの戦闘で彼女が練を見せたのは、囮のオーラを拳に集めたときだけだ。他にオーラを大量消費するような場面はなかった。

 必死に記憶を辿っている二人を尻目に、ビスケはに目配せをする。がうなずいたのが合図だった。
「あんたたちが何気なくおこなっている駆け足、跳躍、その全てをはオーラで強化してたのよ」
「えっ、そうなの!?」
ゴンはもとより大きな目をさらに見開いた。一方キルアは思い当たる節があるようで、ああ、と小さく声を漏らす。
「だからか。なんか急に走んの早くなったよな」

 一番はっきりと印象に残っているのは、くじら島でふざけて始めた絶壁までの競争だ。それまでの彼女の走りからは考えられないペースで食らいついてきたことをキルアは思い出す。すると、ビスケはゴンとキルアのほうを見てやんわりと微笑んだ。
「全てはあんたたち二人についていくためだわね」
現状の素の力では決して並べない、しかし自分に合わせてもらうのも忍びない。そうなるともう、残っているのは念による付け焼き刃だけなのだ。の気持ちを悟ったのか、ゴンとキルアは黙ってビスケの言葉を待っていた。

「その方法に何か害があるわけじゃないし、むしろ鍛錬の一環とも言えるんだけど……」
そう言うとビスケはあごに手を当てて小さく唸った。責められているわけではないけれど、自分がペースを乱していることに変わりはない。はバツが悪そうな顔でビスケを見つめる。
「うん。とりあえず今は三人の足並みを揃えようかしらね」
そう言って顔を上げたビスケはどこか吹っ切れたような顔をしていた。

「これから三十分だけ休憩を取る。あんたたち、出発まで自由にしてていいわよ」
あっけらかんとした調子でビスケが言った。あんたたちとは言わずもがな、ゴンとキルアのことである。反論は何もないようで、二人は互いに顔を見合わせてうなずいた。
「んじゃ、お言葉に甘えて」
、ゆっくり休んでね!」
そう二者二様の言葉を残して軽快に駆けていく。拍子抜けするほどに物分かりがいい。あんまり無茶するんじゃないわよ、なんて背中に声かけをするビスケが母親のようで、は思わず頬を緩ませた。

 楽しげに駆けていく二人をまぶしそうに眺めていたは、突然服の裾を引かれて跳びはねた。
「あんたはこっち」
そんな声が聞こえて振り向くと、地面に座り込んだビスケが自分の膝をぽんぽんと軽く二度叩いた。彼女の言わんとすることはすんなり読み取れる。けれどそれを受け入れられるかは別問題だ。

「えー……と」
は目を白黒させながら言葉を詰まらせた。指導をしてもらうことになったとはいえ、さすがにここまで世話をかけるのは抵抗があるのだ。 するとビスケは小さくため息をついた。
「いくらなんでも岩肌に直接寝るのは酷でしょ。ほら、膝貸してあげるから横になりなさい」
決して折れるつもりのなさそうな、毅然とした瞳に飲み込まれる。はおとなしくその場に腰を下ろすと、ゆっくりと頭を彼女の膝に預けた。

「ありがとうございます」
礼を口にして目をつむる。その直後、ふんわりと優しい感触で両まぶたを何かが覆った。アイマスクさながらにビスケの手が乗っているのだ。
「今はゆっくり休みなさいな。そのかわり、起きたらビシバシしごいてやるからね」
今までに聞いたことのない優しい声が降ってくる。心なしかほのかに甘い香りもして、ここが岩石地帯のど真ん中であることなど一瞬にして意識から消えてしまった。
 返事をしようと開きかけた口がゆっくりと閉じていく。ギリギリで保っていた気力がぷつりと途切れ、の意識はまどろむ間もなく頭の奥深くへと沈んでいった。