No.144 : Dolce


 クラピカは明日にでもヨークシンを発つのだと言った。なんでも、雇い主が既に帰郷してしまっているらしい。いくら相手方からの催促がないとはいえ、雇用されている身として長らく主の側を空けるべきではないというのは至極当然の考えだった。
 そして修行の邪魔になってしまうからと見送りは丁重に断られた。は思わず残念そうに眉根を寄せたが、すぐに思い直す。これは以前のような単純な拒絶ではないのだ。それに今なら自由な連絡手段もある。はポケットの中の携帯電話を握りしめながら、静かに頷いた。

 彼の気遣いを無駄にはできない、とより一層修行にも気合いを入れたいところだが、には最後に一つだけやり残したことがあった。クラピカが出立するということは、彼の仲間もまた、ともにヨークシンを発つということだ。

 ノックをするとすぐに柔らかな声で返事があった。促されるままドアを開ける。センリツは何やら仕事関係の書き物をしていたようだった。
「あの、いま大丈夫ですか?」
が遠慮がちに問いかけると、センリツはわずかな迷いもなく微笑んだ。
「ええ。ちょうど休憩しようと思っていたところよ」
たったそれだけで気持ちが安らぐ。彼女の纏う空気がは大好きだった。

「昨日はどうもありがとうございました」
はそう言って深く頭を下げた。慣れない自分に代わり、センリツがヘアセットとメイクを施してくれたのだ。そのおかげで少なくとも、慣れないドレスとのミスマッチは避けられていたように思える。
「いえいえ。とても似合っていたからやり甲斐があったわ」
「……ありがとうございます」
不意に褒められ、は間抜けにぽかんと口を開けたまま頬を染めた。相手に謝意を伝えるだけのつもりが、いつのまにか自分が喜ばされている。
「ふふ」
ひそやかな笑い声が聞こえる。センリツは口元に手をあて、愛おしそうに目を細めながらを見ていた。

 それから二人は互いの身の上について語りあった。がハンターを目指す理由、センリツが探しているもの、必殺技開発の現状について。決して楽しい話ばかりではなかったが、センリツと過ごす時間はヨークシンでの過酷な経験で疲弊したの心を優しく癒した。念能力による治癒の旋律などなくとも、そばにいるだけでそう感じるのだ。
「センリツさんといると落ち着きます」
思ったままを口にする。が嬉しそうに語ると、センリツはふっと吐息を漏らした。
「それは光栄だわ」

▼ ▼ ▼

 人の気持ちをわずかばかりではあるが読み取れる能力。仕事の上ではこれ以上ないほど成果をもたらしてくれるものの、実生活では不便な点も多かった。
 目の前で満面の笑みを浮かべる相手の冷え固まった心に気づかされ、一見穏やかな人柄の奥で密かにたぎる苛立ちを垣間見る。本来ならば知る由もない裏の顔や負の感情を一方的に知らしめさせられるのだ。

 しかし目の前の少女はというと、言動と心が常に一致していた。思っていることが顔にだだ漏れと言った方が正しいだろうか。とにかく、日頃から裏の読み合いが常の世界に身を置くセンリツにとって、彼女とのやりとりはまるでセラピーにも等しかった。
 クラピカの気持ちもわかるわね――センリツは心の中でそう独りごちる。誰も気づいてはいないだろうが、とともにいる時の彼の心音は普段よりほんの少しだけ柔らかくなるのだ。それは彼にとって、きっと救いの一つ。むやみに口を出して、かき乱す結果にしたくはなかった。

 それに、の中にはもう以前のような不安はない。自分の存在がクラピカの重荷なのではないかという、後ろ向きな葛藤はすっかり溶けて消えている。もはやセンリツが二人の間を取り持つ必要はないのだ。

 どこに隠し持っていたのか、楽しげな顔で色とりどりの菓子を手渡してくるに笑みがこぼれる。どうやら、準備に時間を割けなかったうえ見送りにも行けない彼女なりの餞別であるらしい。手のひらの上で包装の擦れる音がする。あとでクラピカにも渡すよう告げられ、思わず頬の筋肉が緩んだ。

▼ ▼ ▼

 わずかな未練すらなくなったは、時間を忘れて修行に勤しんだ。クラピカとセンリツがヨークシンを後にしたことを知ったのは、空港での見送りを終えたレオリオの口伝いからだった。
「え!? クラピカ帰っちゃったの!?」
残念そうなゴンの声が部屋中に響いた。すでに前日から覚悟していたはなんとなくバツの悪さを感じて小さくなる。
「今は修行がんばれってよ」
ソファに背を預けたレオリオがなだめるように言った。

 ゴンはしばらく不満げに唇を尖らせていたが、少しして、過ぎたことを引きずっても仕方ないと前を向いた。
「クラピカはこれから緋の目を探すんだもんね」
どうやらゴンにも言葉を交わす機会はあったらしい。未だ旅団の息はあるものの、今は深追いをやめて仲間の弔いに専念するのだとクラピカは言っていた。
「よかったね、
「え?」
突然ゴンに声をかけられ、は素っ頓狂な声を出した。クラピカの選択は皆にとって喜ばしい結果のはず。名指しで同意を求められるものではないように思えたからだ。

 するとゴンはニッと白い歯を見せる。
「だって旅団の死亡がデマだって聞いた時、ホッとしてたみたいだから」
ガツンと頭のてっぺんを殴られたような感覚だった。
「あー。おまえってホントわかりやすいよなー」
キルアが笑いながらキャンディをくわえる。
「まァ、気にすんな」
レオリオの大きな手がの頭をわしゃわしゃと撫でた。自分ではうまく精算できたつもりでいたものの、はたから見れば全くそんなことはなかったらしい。
 羞恥、心苦しさ、親愛の情、安心――息つく暇もなく、ありとあらゆる感情が胸の底から一度に押し寄せてくる。いよいよどんな顔をすればいいのかわからなくなったは、言葉にならない声を出しながらその場に倒れこんだ。