No.139 : Return


 騙す気がある者はそもそもこんな確認はしない。パクノダは当然のようにそう言いきると、足早に飛行船を出て行った。
 彼女との関わりといえば、アジトへ連行される道中に行われた尋問くらいのものだ。以前から耳にしていた前評判も相まって、からすれば彼女は、得体の知れない恐怖の対象でしかなかった。
 しかし今はどうだろう。団長のために奔走する姿を見ているうち、の彼女に対する恐れや疑心はすっかりどこかへ消えていた。人質交換はきっと成立する。そんな予感がしてならないのだ。

 パクノダがいなくなった船内で、クラピカは依然として苦しげに顔をゆがめていた。一朝一夕の出来事で積年の敵を信用することは難しいのだろう。とはいえ、先のクラピカは本心から彼女を疑っている風ではなかった。必死にそうあろうと努めているような違和感があった。

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 パクノダがアジトに着く頃合いを見計らってクラピカが電話をかけた。すぐに応答があり、ゴンとキルアの無事が伝えられる。そして今から三人を空港に向かわせるという報告も合わせて入った。
 一時は絶望的だった状況が好転し始めている。もうすぐゴンとキルアに会える。今しがた離陸した飛行船のように、の心も次第に軽くなっていった。

 通話を終えてからというもの、は窓ガラスに張り付くようにして外を眺めていた。すると眼下で停泊している飛行船に、三つの人影が近づいてくる。パクノダとゴン、キルアだ。約束どおりの組み合わせに安心したのもつかの間、さらに遠くで一つの人影がうごめいた。
「おとりかもしれない。周囲に警戒していてくれ」
クラピカが緊張した声で皆に注意を促す。直後、携帯電話に着信があった。ディスプレイを確認もせず応答したクラピカは次の瞬間、耳を疑う。
「……ヒソカ!?」
スピーカーから聞こえてきた上機嫌な声と、ライトで明らかになった人影の正体が合致した。

 ヒソカは影武者を置いて旅団のアジトを抜け出してきたらしい。そして目下の願いは団長と闘いたい、その一点のみなのだという。
 心音に頼れない以上、彼の本心は誰にもわからない。しかしパクノダが焦っているところからみて、少なくとも旅団の作戦という可能性は低くなる。それになにより、現時点でゴンとキルアを射程圏内に収めている彼を無下に扱うことなどできるわけがなかった。

 二つの飛行船が着陸したのは切り立った岩の上だった。辺りにも同様の起伏がずっと向こうの方まで続いている。下船してきたゴンとキルアの姿を捉えたは、駆け寄りたくなるのをぐっと堪えてやりとりを見守った。
 電話をかけたクラピカが携帯電話を胸に当てるよう指示する。キルアが言われた通りに従うと、センリツから異常なしとの判断が下された。
「よし! 交換開始だ!」
クラピカの声に思わずの背筋が伸びる。いよいよ二人が帰ってくるのだ。

 数十メートルの距離を挟んで向かい合った両者がゆっくりと歩き始める。すっかりパクノダに絆されかけていたも、この時ばかりは心臓がばくばくと落ち着かなかった。どうか二人の身に何事も起きませんように、と心の中で祈り続ける。

 万が一の可能性を考慮して、皆は団長の一挙手一投足に目を光らせていた。心臓に楔が打ち込まれているとはいえ、この交換自体に関してはほとんど無関係な制約だ。事を起こすには絶好の機会といえる。
 しかし団長は視線さえ逸らすことなく、そのまま淡々と前へ進んで行った。最も危惧していた中間地点ですら、挙動になんの変化もなくすれ違った。

 団長の後ろ姿がどんどん遠ざかっていくにつれ、ゴンとキルアの緊張した顔がはっきりと識別できるようになる。それでも意識の端で団長への警戒は絶やさない。

 恐ろしく長い数十秒だった。ゴンとキルアの足がクラピカのすぐ横を踏んだと同時、は身体中の力が一気に抜けていくのを感じた。そして反動で吸い込んだ酸素がみるみるうちに指先まで染み渡る。緊張のあまり呼吸することを忘れていたのだ。
「よかった……」
は思わずそう零すと、ほっと一息ついている二人を抱きしめた。
 突然のことに身を硬くした二人だったが、心底嬉しそうなの様子に気づいてそっと力を抜いた。そして互いの背中にゆっくりと腕を回す。服越しに伝わるあたたかな体温が、ようやく戻ってこれたのだという実感をより鮮明にしてくれているようだった。

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 クラピカたちを乗せ、ゆっくりとヨークシンへ向かう飛行船。その窓に顔を寄せたは、遠ざかっていくヒソカと団長の姿を見つめていた。
 しかし実際にの頭の中を占めているのは別の人物だった。このさき旅団として共に過ごすことは叶わないと理解していながら、それでも真摯に要求と向き合っていたパクノダの姿が脳裏に焼き付いて離れないのだ。

 とはいえ、平和的な仇討ちとしてはこれ以上ない結果である。は気を取り直し、隣で同じく窓の外を見ていたクラピカに向き直った。

口を開きかけたと同時に名を呼ばれる。は驚きつつもクラピカの瞳をじっと見つめ返した。あたたかな榛色が視線を捉えて離さない。
「遅くなったが……の協力には感謝している。ありがとう」

 今のにとって一番の救いの言葉だった。思考が数秒停止したあと、遅れてやってきた嬉しさが一気にの頬を染め上げる。
「ううん。もクラピカの役に立てて嬉しいから」
わたしに手伝えることがあったらなんでも言って。思わずそう続けようとしてあわてて踏みとどまる。もちろん心からの言葉ではあるが、肝心の時間的な受け皿がない。一度乗りかかったゴンの父親探しを途中で放棄するわけにはいかないのだ。
 そして今回の件で痛いほど実感させられた。始めに突っぱねられたとおり、彼が生きている世界へ飛び込むにはまだまだ力不足だ。無責任なことは言えなかった。

 いずれ力をつけた暁には必ずと心に誓いつつ、はその熱すぎる思いをむりやり飲み込んだ。そしてその代わり、もうひとつの本音を口にする。
「……ねぇクラピカ。帰ったらゆっくり休んでね」
本人は決して吐露などしないだろうが、今回彼の精神はかなり磨耗しているはずだ。加えて緋の目や念能力も惜しげもなく使用している。せめて事が一段落したこのタイミングで、は彼に少しでも安らかな時を過ごして欲しかった。

 しかしクラピカが頷くことはなく、困ったような柔らかい微笑みが返される。
「そうもいかないさ。まだまだやることがあるからな」
あれだけの大仕事をこなしたというのに、クラピカの意識はもうすでに次を向いている。一見穏やかに見える彼の瞳は、その奥深くで新たな野望に燃えていた。