No.137 : Hostage


 従業員に怪しまれないよう自然な動作で関係者入口へと忍び込む。ゴンたちに比べてあらゆる面でなかなか奮うことはないだが、気配断ちに関しては比較的得意だった。
 きらびやかなエントランスとは対照的に、裏側は無機質で薄暗い。は監視カメラの目を縫うように蛇行しながら、下へと続く階段を駆け下りる。

 電気室はブーンという低周波の不気味な音で満ちていた。クラピカの話によれば、各設備へ電気を配分するための分電盤と呼ばれる機器がここにあるらしい。
 壁に沿うように配置された大型の機械を急いで見て回る。すると、ひときわ大きなクリーム色のキャビネットに目的のラベルを見つけた。中にはたくさんのつまみと配線がぎっしり整列している。は改めて時計を確認し、そのときを待った。

 秒針の循環が最後の一巡に入った。
 レオリオとセンリツは変装したクラピカと共にエントランスで機をうかがっている。すぐそばには周囲を警戒する複数人の旅団員。命の危険を伴う役目だ。
 一方はといえば、専門外の作業とはいえ、念の使い手ですらない一般の従業員を気にかけるだけでいい。成功は大前提。失敗することなどはなから考慮すらされていない。

 自身の行動に皆の命がかかっているのだと思うと、つまみにかけた指先が震える。は意識的に深く息を吐きながら、手元の携帯電話に視線を落とした。長針がみるみる向きを変えていく。そして先端がちょうど真上に達する瞬間、は両目を閉じ、勢いよくメインブレーカーを落とした。

▼ ▼ ▼

 幸いにも、何者かが電気室を訪れる前に作戦は完了したようだった。一度だけ小さく震えたポケットに安堵すると、はその場を後にする。そして裏口からホテルを抜け出し、事前の打ち合わせどおり北西へ向かって走り出した。自身の役割がうまくいった興奮に自然との足取りは軽くなる。

 待ち合わせ場所で車に乗り込んだは、思わずひゅっと息を飲んだ。クラピカとともに後部座席にいたのはパクノダとゴンたちではなく、黒い髪を後ろへ撫で付けた男ただ一人だった。即座に車が発車する。
「すまない。イレギュラーがあった」
クラピカが言った。はあわてて首を横にふる。
「十分収穫だよ! この人がこっちにいる限りゴンとキルアは無事なんだから」
これまでの話から総合して、おそらく彼は団長だ。単純に相手への牽制目的のためならばこれ以上の適任はいない。

 そのとき、男の口元に薄く笑みが浮かんだ。
「オレに人質としての価値があると思っているならとんだ見当違いだな」
は彼が何を言っているのかわからず固まった。一見卑屈に聞こえるが彼の態度はむしろその逆で、落ち着きと尊厳に満ちている。
「この期に及んでくだらん戯言を……よほど死にたいらしいな」
クラピカの瞳が鮮やかな緋色に変わった。硬く握られた拳が赤黒く汚れているのを見てはハッとする。やけに傷だらけだった団長は既に何度か殴られた後なのだ。

 クラピカのオーラが熱く膨れ上がる。素手とはいえ、鎖の効果で強制的に絶状態となっている者を殴ればどうなるかは想像に難くない。
「おい、冷静になれクラピカ!」
レオリオがあわてて静止をかける。しかし、クラピカの双眸は未だ憎い仇を捉えたまま放さない。もともと彼が抱いていた憎悪の大きさから考えれば、ここまで堪えただけでも十分な健闘なのだ。
 そしてその最大の原動力だったゴンとキルア救出の可能性が、本人の手によって潰されようとしている。
「待って。彼が言っていることは本当よ!」
センリツが声を上げた。クラピカの動きがぴたりと止まる。
「……どういうことだ?」
「彼の心臓は至って正常。動揺は微塵もないの」
死への恐怖、不安、何もないわ。そう語るセンリツの顔からは血の気が引いていた。

 心臓、その言葉を聞いてはようやく腑に落ちた。口にせずとも自分の胸の内がセンリツに筒抜けだった理由だ。彼女は鼓動の変化からその者の感情や考えを読み取っている。
 彼女の能力に確かな信頼性があることは疑う余地もない。それだけに、この団長という男がどれほど異質なのかが痛いほど伝わってくる。
 己の死が旅団にとって何の痛手にもならないと信じつつ、その事実をここで敵に明かすという判断。そしてこの先に訪れるであろう死を恐れる気持ちは微塵もない――常人には理解不能の言動だった。そのあまりの底の知れなさには恐怖を覚える。

 死を受け入れている音。死を毎日そばにあるものとして享受している音。センリツは彼の鼓動をそのように形容し、眉をひそめた。絶えず耳に流れ込んでくる音がセンリツの心をかき乱す。
「……もうイヤ、もう聞きたくない! その人の音も、あなたの音も!」
彼女の悲痛な叫びはようやくクラピカに届いた。