No.89 : Nostalgia


 いつものように森から帰宅した三人は、キッチンで忙しなく働くミトの後ろ姿に違和感を覚えた。普段ならもうしばらくしてから取り掛かるはずが、今日は既に何品か完成してしまっている。
「あれ。今日なにかあるの?」
ゴンがそう言って首をかしげると、ミトはたった今出来上がったばかりの大皿をテーブルの真ん中に添えた。
「明日からしばらく帰ってこられないんでしょ?」
無限に続くような気がしていたここでの暮らしも、ついに終わりを迎えるのだ。ミトとしては送別会よろしく、最後にたくさんのご馳走でもてなしたいのだろう。ほんの一瞬目が合ったかと思うと、彼女はすぐにコンロの前へ戻っていく。
「あと少しでできるから、手を洗ってらっしゃい」
この言葉を聞けるのも今日が最後なのだと思うと、さすがのも、ご馳走を喜ぶ気持ちばかりでは居られなかった。このままではまずいと感じたは、ゴンとキルアの後について洗面所に向かい、手を洗うついでに冷たい水でじゃぶじゃぶと顔を洗った。

 ミトの渾身のご馳走は、ゴンたちの目と舌を大いに楽しませた。一ヶ月の間、十分に様々なメニューを振舞われたはずだが、ここへきて新たな料理が続々と登場したことには驚く。そしてそのどれもが相変わらず絶品だった。
「やっぱりミトさんの料理は美味しいや」
「ふふ。ありがと」
とろけそうな笑顔を向けるゴンにミトの頬が緩んだ。そして二人が見つめ合っている間にも、キルアが大皿をそばに寄せたかと思うと、残りを一気にかき込んでいる。それを横目にスプーンを口へ運んだは、ハッと眉を跳ね上げた。
「ミトさん、これ……あとでレシピを聞いても?」
「えぇ、いいわよ」
夢中で味わわれるのはもちろんのこと、工程や味付けの詳細に興味を持たれるのも作り手としてこの上ない喜びである。ミトは三者三様の反応すべてが嬉しく、そして愛おしかった。

 楽しく和やかな時は刻一刻と過ぎていく。用意されていたご馳走は見事に全て各々の腹へ収まり、順番に風呂を済ませると、あっという間に寝る時間だ。
 残り少ない機会をなるべくミトと過ごしたいだったが、丸一日森で駆け回った代償からは逃れられなかった。レシピをメモに取り終わり、ほんの少し気を抜いたとたんに意識が途切れる。転がり落ちたペンがテーブルを伝い、向かいのミトの手に触れた。
 きっと次にこの少女の瞳を見られるのは明日が来てからのことだろう。ミトは目の前でテーブルに突っ伏しているの頭をそっと撫でた。

▼ ▼ ▼

 その日は快晴だった。旅立ちの門出にふさわしい、抜けるような青が空一面に広がっている。そして水平線から吹く潮風は、肌に付きまとう熱をさわやかに攫っていった。
 は連絡船に乗り込むや否や急いで甲板から顔を出し、岸の先端に視線を向ける。そこには、家の用を急ぎで済ませ、ゴンたちの遠慮をはねのけて港まではるばる見送りにやってきたミトの姿があった。それを目に焼き付けるように、出航の合図が鳴り響いてもなお、は彼女を見つめ続ける。
「ミトさーん!」
すぐ横でゴンが右手を振りながら叫んだ。
「ジンに会ったらまた島に戻ってくるからねー!」
弾けるような声が空気を揺らす。たまらずも大きく息を吸い込んだ。
もまた遊びにきまーす!」
ありったけの叫びは無事にミトの耳へ届いたようだった。返事がわりに彼女の右手がより高く振られ始める。は胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、なるべく遠くまで届くようにと自らも大きく手を振り続けた。

 地平線も消え、すっかり海の真ん中にやってきた船の上で、は深く息を吐いた。振り疲れた右腕が重だるく、じんわりと熱を持っている。
「おまえ、行く先々でそれだなー」
デッキの手すりに背を預けながら、呆れ顔のキルアが視線をよこした。
「そこがのいいところじゃない」
そうフォローを入れるゴンの声色はどこか複雑だ。友人が傷ついているのはもちろん気の毒だが、それほど母に親しみを抱いてくれているという点では喜ばしいようなくすぐったさもある。
「けど、あんまり入れ込みすぎても身がもたねーぜ」
キルアはそう言って、どこからともなく取り出したリンゴにかぶりついた。しゃくっと小気味よい音がして、移ろい気味だったの視線が目の覚める赤に吸い寄せられる。

 キルアは小さく笑みをこぼすと、反対の手にも持っていた赤をの眼前に差し出した。遠慮がちな視線がリンゴとキルアの間を往復する。
「……人数分あるから遠慮すんなよ」
そう言うとキルアはまっさらなリンゴをゴンに手渡し、再度新しいものを取り出してみせた。すると、今度はすんなりと手から離れる。
「ありがとう。……おいしい」
受け取るや否や、そのまま流れるように口をつけるの姿は不意打ちだった。キルアは笑いを堪えつつ、ゆったりと手すりに頬杖をつく。すると、船尾から伸びる波の軌跡が水平線まで続いているのが目に入った。
 白と青の混ざり合う様を眺めながら、キルアは再度リンゴにかじりついた。ふと、そういえば来たときもコレだったな、と思い出す。とたん鈍く疼き始めた胸を意識から追いやるように、キルアはもくもくと食べる勢いを早めた。

第二の故郷。