No.88 : Magic


 窓から差し込む光が細長く室内を照らしている。西日を受けてわずかに赤みを帯びた部屋は、昼間の熱気を保ったまま、徐々に夜へ向かっていく。
 は慣れない手つきで手元のシャツの袖を丁寧に折り込んだ。ここに来てしばらくしてから始めた習慣だが、一日のうちで最も穏やかなこの時間がはたまらなく好きだった。
「あ!」
が思わず声を上げると、ミトの動きがぱったりと止んだ。
「どうしたの」
しっかり乾いていない部分でもあっただろうかと、ミトはこわごわの手元を覗き込んだ。
「ここ、破れちゃいました」
そう言ってが指差す先に走る、長い亀裂。それほど弱い生地でもないだろうに、ここまで見事に破れるとは――ミトは大きく瞬きをした。同時に、それだけ修行や遊びに力を入れているということか、と目の前の彼女のいじらしさに胸が締め付けられる。

 先ほどまでご機嫌で手を動かしていたはずが、今は俯き加減にじっと一点を見つめている。ミトはたまらず、の肩にそっと手を置いた。
「これ、お気に入りだものね」
そう声をかけた瞬間、は弾かれたように顔を上げた。
「えっ、なんでわかるんですか!」
まるで心の中を覗かれてしまったのではないかと、ほんの少しだけ怖くなったのだ。するとミトは口元に手を添えてクスクスと笑い始めた。
「だって他にも何着かあるのに、二日に一回はこれを着てるわよ」
「あ……」
己の行動パターンのあまりの単純さには頬が熱くなる。そのまま絶句してしまったを見て、ミトはさらに笑いを深めた。

 恥ずかしくはあるものの、ミトが楽しそうにしていることでにとっては差し引きゼロだった。そんなことよりもショックな点は他にある。
「これ、もうだめですね。また新しいの買わなくちゃ……」
はそう言って裂け目を優しく撫でた。デザインが気に入っているのはもちろん、頻繁に着ていた故に、思い出も他より多く詰まっているのだ。
 そして新調するにしてもずいぶんと先――ヨークシンへ到着してからの話になるだろう。この島で子どもの衣料品が常時取り扱われているとは到底思えない。

 暗い顔のとは違い、ミトは実にあっけらかんとしていた。
「あら、そんなことないわよ」
そう言って立ち上がり、奥の部屋へ引っ込んだかと思うと、戻ってきた彼女の手には木製の箱がぶら下がっていた。そしての手から服を取り上げ、実に細やかな針さばきで糸を踊らせる。呆然とした顔で見守るの視線の先で、裂け目はあっという間にぴったりと縫い合わされてしまった。
「はい、できた」
受け取った服はすっかり元の姿に戻っていた。注意深く観察してみても、修繕の痕はほとんどわからない。ミトの裁縫技術の高さに加え、破れ方が元々の縫製箇所に沿っていたことも理由の一つだ。
「わぁ……すごい。新品みたい」
不思議な力でも見たかのように、の瞳はキラキラと輝いている。ミトにとってはなんて事ない日々の勤めの一つだが、には衝撃だった。

「物は大事にしなきゃダメよ?」
ミトはそう言ってにっこり微笑むと、裁縫道具を手早く片付け始めた。その様を惚けたように眺めていただったが、彼女が立ち上がったところでハッとする。
「……わ、にもお裁縫、教えてください!」
突然の申し入れにミトは大きくまばたきを繰り返した。驚きはしたものの、断る理由は一つもなかった。
「じゃあ、ちょうど他にも繕い物があるし明日一緒にやりましょうか」
「はい!」
の歯切れ良い返事に思わずミトの口角が上がる。ミトもまた、と過ごすこの緩やかな時間をすっかり気に入ってしまっていた。

▼ ▼ ▼

 翌日、ゴンやキルアと共に森から帰ったは、ゲームの続きをするという二人と別れてリビングに残った。間も無くして、昨日と同じ箱を持ったミトが奥から現れる。
「よろしくお願いします」
が小さく頭を下げると、ミトは柔らかく目を細めた。ゴンは昔から裁縫にあまり興味を示さなかったので、誰かに針と糸の使い方を教えるというのはなんとも新鮮だった。
 ミトの指導のもと、は一着のシャツの補修を無事こなしてみせた。もともと手先は器用だったので、時間はかかりつつも大きな失敗はなく作業が完了する。

 片や、やはりミトはさらに格上だった。まるで機械のように正確な縫い目で穴を塞ぎ、しかもその手つきは驚くほど早い。彼女の見事な手技に見惚れるあまり、二着目の修繕に取り掛かったはずのの手は完全に止まってしまっていた。

 キラキラした瞳で見つめていたかと思えば、今度は魂の抜け殻のように惚けている。くるくると変わるの表情に、ミトは思わず噴き出した。子どもと言うよりはもう少し従順で――そう、まるで弟子ができたような感覚だった。
「……そうだ」
思わず口が勝手に動き出す。
「こないだの一ヶ月とは言わず〜って話」
手元に注がれていた視線が途端にミトのそれとかち合う。大きく見開かれた瞳は、映りこんだ自分の姿が確認できそうなほどだ。ミトはくすぐったく緩む口元もそのままに小首を傾げてみせた。
「九割冗談だけど一割は本気だから」
ゴクリと唾を飲み込む音がする。そしてしばしの間があり「えぇっ!」と半分裏返ったような声がリビングに響いた。

ミトのおもちゃ。