No.80 : Desire


 家に入って扉を閉めた途端、は身体中の熱が顔に集まってくるのを感じた。思い返せば、キルアに外見を褒められた経験などこれまで一度たりともない。何も言及されないのが当然で、そもそもそれを意識したことすらなかったはずだ。しかし今、の頭の中では、先ほどのキルアの言葉が何度も反響していた。
「あら、森に行くんじゃなかったの?」
突然掛けられた声には肩を震わせた。視線を上げると、二階から降りてきたミトが目を丸くしてこちらを見ていた。
「と、途中までみんなと一緒だったんですけど、少し体調がすぐれなくて」
言いながら、は熱い頬を誤魔化すようにほんの少し俯いた。
「そう……長い船旅だったものね」
ミトは痛々しげに眉根を寄せる。その親身な反応に、の心はすっかり彼女を受け入れてしまった。血の繋がりもない出会って数時間の女性だが、まるで母親を前にしたときのような感情が湧き出てくる。
「ちょうどいま部屋の片付けが終わったところだから、ゆっくり休みなさい。……こっちよ」
ミトはそう言って手招きをすると、再び二階への階段を登り始めた。

 案内された先は、居室にしては少し雑多で物置と呼ぶにはあまりに小綺麗な部屋だった。奥の方に、棚へ入り切らない本が平積みで山を築いている。
「ごめんなさいね。普段は使ってない部屋だから物が多いの」
でも女の子だし一人部屋がいいかと思って、とミトは続ける。ゴン達は元々の自室を使えばいいとして、の分の居住スペースは急拵えなのだ。
「いえ、わざわざお気遣いありがとうございます」
はぺこりと頭を下げると、促されるままベッドに潜り込んだ。おろしたてなのだろう、ほんの少しだけ固いシーツが肌に触れる。
「じゃあ私は下に居るから。何かあったら呼んでね」
ミトは真綿のように柔らかな声でそう言うと、静かに部屋を後にした。閉められたドアの向こうで、階段を降りていく音がだんだんと消えていく。
 辺りが静寂に包まれたと同時に、揺れている感覚が蘇る。はそれを無理やり忘れようと、タオルケットをかぶり強く目をつむった。

▼ ▼ ▼

 池のほとりへ戻ったキルアはゴンと共に森を一通り満喫した。遊び疲れたところで、今度は焚き火のそばへ腰を下ろす。そのまま冷たい岩の地面に背中まで預けると、いつのまに塗り替えられていたのか、濃紺の空が視界を埋めつくした。邪魔な光のないこの森は、星を眺めるには最高だった。

 パチパチと薪の弾ける音が二人を包み込む。ここでの生活は、今までと同じ速さで時が流れているとは思えないほど穏やかだ。
「なぁゴン。お前これからどーする?」
ミトにハンターライセンスを見せるという目的はさっそく達成してしまった。これから二ヶ月弱の間、急を要する用事はこれといってない。
「んー。しばらくはここでゆっくり情報収集かな」
ハンターになるという夢を叶えた今、ゴンの次なる目標は父親を探し出すことだ。あらかた予想できていた答えにキルアは大きく息を吐いた。
「だよな。……オレはどーしようかな」
そう言って物思いに耽りそうになったキルアの横で、ゴンが勢いよく飛び起きる。
「え! キルアもここに居て、一緒にヨークシンへ行こうよ」
「……あー、それはそうなんだけど」
言いながらキルアはゆっくりと起き上がった。

 直近のことを話していたゴンとは違い、キルアは長期的な目標、さらに言えば生き方そのものについて思いを馳せていた。念願叶って敷かれたレールから飛び出すことはできたものの、これから自分がどこへ行きたいのかはわからない。何も浮かばないのだ。

 その点ゴンは着実に願望を叶え、新たなゴールを自分で定めている。そして未だ実現していないとはいえ、夢を追う姿勢ならばだって負けていない。
「オレってないんだよなー、やりたいこと」
やりたくないことならたくさんあるんだけど、とキルアは続ける。殺しの訓練、家業を継ぐこと、家にずっと閉じこもっていること。それらすべてから解放されたというのに、キルアは心の底から喜びきれないでいた。
「……ねぇ」
ゴンがやけに真剣な瞳でキルアを見つめる。
「オレ、キルアと居ると楽しいよ」
突拍子もない発言にキルアの心臓が大きく跳ねた。喉の奥がぎゅっと詰まり、なかなか言葉が出てこない。頬がじんわりと熱を持つ。
「な、なんだよ急に……」
ようやく発した声はどこか不安定だった。
「このくじら島ってさ、出稼ぎの漁師が長期滞在するための島なんだ」
そう言ってゴンは空を仰いだ。

 同年代の島民は他に一人しかいないこと。キルアとが生まれて初めての友だちであること。淡々と語られる境遇に、キルアはよりゴンを近くに感じ始めた。
「……オレだってお前らが初めてだよ」
思わず口に出る。仕事以外で外出許可がおりることはほとんどなく、友だちになり得る人間と触れ合う機会そのものが存在しない。殺しとその訓練が人生の大部分を占めていた日々。そんな、思いつく限りの闇を押し固めたような過去からは考えられないほどの状況に、いまのキルアは立っている。
「キルアは、オレといて楽しい?」
ゴンが依然として大真面目な顔でキルアの顔を見つめた。
「そりゃ、まぁ……な」
言っているそばからむず痒くなり、後ろ頭をガシガシとかく。今日はつくづく小っ恥ずかしい発言を強要される日だな、とキルアは思った。
「じゃあ」
ゴンの顔がぱあっと輝く。
「これからもずっと一緒にいて、いろんなものを見ようよ!」
まるで名案とでも言いたげにゴンは身を乗り出した。

 まったく想像していなかった未来ではない。放っておけば自然とそうなっていた可能性も十分にある。しかし面と向かってここまではっきり明言されると、まず最初に込み上げてくるのは照れ臭さだった。
 言葉に詰まるキルアとは対照的に、ゴンは相変わらずいきいきしながら口を開いた。
「オレは親父を、キルアはやりたいことを探す旅。きっと楽しいよ!」
考えただけでにやけそうになるのを堪える。
「……そうだな。悪くないな」
そんなそっけない返事を口にしながらも、キルアの胸中ではこれからへの期待が溢れて止まないのだった。

明るい未来。