No.77 : Dash


 波の揺れにも慣れ、潮の香りが日常になってきた頃。ゴンたちを乗せた漁船は、とうとうくじら島を視界に捉えた。
「おう坊主。そろそろだぜ」
船長が窓から顔を覗かせた。ベッドに座り込み、瞑想に耽っていたキルアが瞼を上げる。
「ゴンとは?」
大きく伸びをしながら問うた。
「いつものところだ」
船長の言葉に、暇さえあればマストに登っていたなと思い至る。キルアは礼を言ってベッドから勢いよく飛び降りると、駆け足で甲板へと向かった。

 雲ひとつない青空を見上げると案の定、風になびく帆の上に二人の姿を見つけた。キルアは口の端を上げ、軽やかにそれをよじ登る。目線が上がり、視界が開けると、前方の小島がはっきりと見えた。
「へー。あれがくじら島か」
丸く盛り上がった胴に、尾びれへ向かう途中のくびれ。緑豊かなその島は、イラストでよく見るくじらの姿そのままの形をしていた。
「うん。そっくりでしょ」
ゴンがほんの少し誇らしげに言った。
「かわいいよね。早く降りてみたい!」
は無邪気にはしゃいでいる。上陸してしまえば島のフォルムなど何も感じられないはずだが、そこはあまり問題ではないようだった。

 船から降り、しっかりと足を踏み締めたは少しの戸惑いを覚えた。そんなはずはないのに地面が未だ揺れているのだ。が不思議な感覚に驚いていると、その横でゴンが大きく深呼吸を始めた。
 二人もそれに倣って限界まで息を吸い込み、ゆっくりと吐く。目をつむると、波が船体を叩く音、縄の軋み、空に響き渡る汽笛が三人を包み込んだ。すっかり慣れたと思った潮風も、海の上にいた時とはまた違った香りがする。

 たっぷり三回それを繰り返した三人は、互いに顔を見合わせて笑い合った。
「おい坊主」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、船長が甲板からこちらを見下ろしている。
「餞別だ。受け取れ」
そんな言葉とともに、今度はリンゴが降ってきた。慌てて受け止めたの両手の中で、みずみずしい赤色がつるりと光る。船内の生活でも十分世話になったうえ、手土産まで貰ってしまった。
「ありがとうございまーす!」
「さんきゅー」
そう言って大きく手を振ると、三人の反応に気を良くした船長が白い歯を見せた。

 もらったリンゴをかじりながら、三人はゆったりと道沿いに歩いていた。港から離れるにつれて、海の匂いが草の香りに塗り替えられていく。建物もまばらになり、とうとうこの場の三人以外の姿は見えなくなった。
「あ。あの丘の上がオレの家だよ」
ゴンが指差す先に視線を向けると、なだらかな起伏のはるか向こうに小高い山が見えた。
「まだ結構あるなー。これだけじゃ足りねーかも」
食べかけのリンゴを見つめながらキルアがぼやいた。このままのペースで行けば、家に着くまでにあと二時間はかかりそうだ。
「まぁまぁ。たくさん歩いたあとのゴハンはより美味しいよ」
早々にリンゴを食べ終わってしまったはそう言って笑った。しかし次の瞬間、勢いよく前方に駆け出す。彼女の突然の奇行に思考停止したキルアだったが、すぐにハッとした。
「おま、歩くんじゃねーのかよ!」
「だってもう待ちきれないんだもん!」
そんなやりとりの間にも、彼女の背中はどんどん遠ざかっていく。ハンター試験を彷彿とさせる走りっぷりに唖然としながら、キルアとゴンは慌てて後を追った。

 穏やかな早朝散歩だったはずが、突如トレイルランニングに発展してしまったものの、山頂に到達した三人の間には笑い声が満ちていた。
「……あ。ミトさーん!」
いち早く前方の人影に気づいたゴンが大きく手を振りながらスピードを上げた。家の前で洗濯物を干していた女性、ミトが勢いよく振り向く。
「ゴン!」
ミトは飛び込んできたゴンをしっかりと抱き留め、おかえりと続けた。そして遅れてやってきたキルアとの姿に気づき、ゆっくりと身体を離す。
「あなたがキルアとね」
名を呼ばれたキルアは恥ずかしげに視線を逸らし、は口元をほころばせた。

 さっそく家の中に案内されたキルアとは、そわそわ落ち着かない様子でゴンたちのやりとりを見守っていた。
「もう。帰ってくるなら先に教えてよ」
ミトはわずかに怒気を含んだ声でぼやきながら、食器棚を開けた。そのあとに聞こえてくる物音は焦りからか、どれもいささか大きめだ。
「いいよテキトーで」
「何言ってるの。せっかくお友達も来てるのに」
ゴンが気遣いのつもりで掛けた言葉は一瞬であしらわれてしまった。
「いえ、おかまいなく……」
これまでのやりとりから色々と察したのか、珍しく遠慮がちにキルアが言う。も慌てて彼に倣おうとしたものの、ミトの料理に期待して全力疾走してきた手前、あまりに調子が良すぎる気がして上手く言葉にならなかった。

そろそろ空腹の限界。