No.76 : Farewell


 はリングの上で佇むゴンをいつまでも眺めていた。高まった興奮が突然置いてきぼりにされ、クールダウンにはしばし時間が必要だった。
 ゴンはヒソカの圧倒的な実力に翻弄されつつも、彼の余裕を逆手に取り、石板の目くらましを利用して見事借りを返すことに成功した。顔面パンチをおみまいし、四次試験のプレートを突き返すという、ほとんど宣言通りの展開には熱く震えた。
 しかしその後は消化不良である。戦闘力の差から言ってこれ以上の戦闘は危険という審判の判断により、ヒソカに次々とポイントが加算され、あっという間に試合は終了。11-4でゴンの負けが決まってしまったのだった。
 ゴンへ掛ける言葉を考えあぐねていただったが、彼を間近で見た途端その悩みは吹き飛んだ。若干の悔しさを残しつつも、彼は実に晴れやかな顔をしていた。
「おつかれさま」
すんなりと出てきたの言葉に、ゴンは嬉しそうにはにかんだ。

 退場手続きを済ませたゴンたちは、ウイング、ズシとともに天空闘技場前の噴水広場を訪れた。他に人影はなく、サラサラと流れる水の音だけが辺りに満ちている。噴水の水底に灯る淡いひかりが幻想的な空間を作り出し、昼間ののどかな風景とはまるで別世界であった。
「ゴンくん、キルアくん、さん」
名を呼ばれ、あらためてウイングの顔を見上げたは、鼻の奥がツンと痛むのを感じた。先ほどまでは自身の成長ぶりに浮かれているばかりだったが、本当にこれで終わりなのだという実感が込み上げてくる。
「ここからは君たち自身がそれぞれの道を歩む中で、それぞれの念を完成させてください」
「はい!」
みなと共に頷きながら、は必死に瞬きを繰り返していた。

「自分、みなさんに会えて良かったっす!」
の苦悩を知ってか知らずか、ズシが元気よく言った。
「超えるべき目標ができて努力のしがいがあるっす!」
ズシはそう言って右の拳を握りしめた。いつもと変わらない、まっすぐな瞳が三人の姿を映している。
「超えられると思ってんの?」
「楽しみに待ってるよ、ズシ」
キルアとゴンは正反対の反応を返しつつも、思うことは同じであった。

 彼との出来事を思い出すとはいよいよ限界だった。視界が歪み、頬にあたたかいしずくが伝った瞬間、慌てて服の袖で顔を拭った。そうして今度こそ、と大きく息を吸う。
もズシに会えてよかった。お互いがんばろうね」
ズシの瞳が大きく見開かれる。にはそれが一瞬、揺らめいたように見えた。
「……押忍!」
絞り出すような声と共に、ズシは構えを取った。

 ゴンとが大きく手を振りながら去っていく。早々に前を向いてしまったキルアも振り向きざま、最後にとびきりの感謝の言葉を口にした。そうしていつしか、彼らの姿は夜の闇に紛れてしまった。
 ズシはじんわりと重くなった右腕を下ろし、足元を見つめた。喉の奥が熱く塞がってくる。ぼやける瞳から零れたしずくが、地面に点々と跡を残した。
「よく我慢しましたね」
大きなあたたかい手のひらが頭に添えられた瞬間、固く結ばれていたはずの口から、堰を切ったように嗚咽が漏れた。

▼ ▼ ▼

 ズシたちと別れた三人は、空港に向かってのんびりと歩を進めていた。若干の寂しさを残しつつもだいぶ吹っ切れた様子のゴンと、未だ難しい顔をしたままの。二人の顔を見比べたキルアは、ふぅと息を吐き、頭の後ろで両手を組んだ。
「最後に肉でも食いに行こーぜ」
するとが心外だとばかりに眉間にしわを寄せた。
「キルア、とりあえずに食べ物与えればどうにかなると思ってるでしょ」
ムッとした顔を向けられたキルアだったが、この状況に焦る気持ちは微塵も生まれない。
「じゃあやめるか?」
キルアは口の端がヒクつくのを必死に抑えながら問うた。はぐっと息を詰まらせ、しばらく視線をさまよわせた後、悔しそうに口を尖らせる。
「……行く」
その直後、両脇のゴンとキルアが盛大に噴き出した。

 運ばれてきた肉が次々に金網へ移されたかと思うと、食べ頃になった瞬間、四方から伸びた箸によってあっという間に攫われてしまう。次々に積まれていく空の皿は、いくらも経たないうちに皆の目の高さをゆうに超えた。
「これでようやくゴンの目標クリアだな」
そう言ってキルアはカルビの群れを一纏めに掴む。ゴンが嬉しそうに頷きながら、タンの一角を確保した。はというと、自皿の肉をマイペースに頬張っている。
「もうここには用はねーし、これからどうする?」
ヨークシンでの約束の日はまだ二ヶ月近く先である。ぽっかりと空いてしまった空白期間をどう埋めるべきか――はひとまず肉の味を頭の脇に追いやり、小さくうなり始めた。

「オレはくじら島に帰ろうかな」
なんの用意もないとは対照的に、ゴンは迷いのない、まっすぐな目をして言った。
「くじら島?」
キルアとの声が重なる。
「うん。ミトさんにライセンスカードを見せたいんだ」
そう言ってゴンは肉に箸をつけた。ハンターになるために島の外へ出たのだ、それを達成したという報告は確かに必要だろう。はうんうんと頷きながら店員を呼び、膨大な追加注文を告げた。皿の山と三人の顔を見比べた彼女は、途端に青い顔をして奥へと引っ込む。
「……オレも行こうかな」
キルアが肉を裏返しながらぽつりと言った。するとゴンの顔が途端に輝き始める。
「ホント? じゃあ一緒に行こうよ」
何気なくつぶやいた提案を快く受け入れられ、キルアの顔にも笑みが浮かんだ。

 二人のやりとりを聞いていたは、居ても立っても居られなくなった。ただでさえ気になるゴンの故郷。さらにキルアまで同行するとあっては、ここから自分だけ別行動をとるなど考えられない。脳裏を掠めた両親の顔は見ないふりをして、は身を乗り出した。
も行きたい!」
すると案の定、ゴンも同じことを気にしていた。
は親御さんとか大丈夫なの?」
もともと放任主義ではあったが、試験を受ける許可を得た時点では一人前に扱われていた。たまの連絡を怠らなければ、帰るよう促されたことはない。

 がそう語ると、横で聞いていたキルアが肉をつつきながら羨望のため息をついた。
「いーよなー。うちのお袋たちとはえらい違い」
あまりに両極端な例が身近で揃っている奇跡にゴンは苦笑した。しかし嬉しいことには変わりない。
「よかった。じゃあも一緒だね!」
そう言って両手を打ち合わせ、ゴンはにこにこと二人の顔を見比べた。これからも皆と過ごせると思うと、楽しみが溢れて止まらない。
「ちょっと邪魔するぜ」
「お世話になります」
キルアとはそう言って小さく頭を下げる。そのとき、先程頼んでいた肉の盛り合わせがようやく届いた。三人の宴会はまだ始まったばかりだ。

久しぶりの肉。