No.75 : Pass


 翌日。すっかり体調の良くなったは、寝ていた分を取り戻すかのようにたっぷりと朝食をとった。そのあまりの勢いに、向かいでハンバーガーを頬張っていたキルアはこめかみを引きつらせ、ゴンは眉尻を下げて苦笑していた。

 ウイングの部屋に足を踏み入れた途端、真っ先にズシが駆け寄ってきた。瞳をキラキラと輝かせるその姿は、さながら飼い主を出迎える忠犬のようであった。
さん! 元気になったんですね!」
「うん。心配してくれてありがとう」
はニッコリと笑顔を返すと、今度は部屋の奥のウイングへと向き直った。
「昨日はお見舞いに来て頂いてどうもありがとうございました」
深くお辞儀をするの姿にウイングの口元も柔らかく緩む。
「いえいえ。良くなって安心しましたよ。……さて」
ウイングはそこで言葉を区切ると、表情を引き締め、皆の顔をゆっくりと見回した。
「それでは、修行の成果を見せてもらいましょうか」

 テストは以前と同じ順序で行うこととなった。
 ゴンはグラスの前で静かに目を閉じると、深く長い息を吐いた。次の瞬間、双眸を見開いた彼の周りで力強いオーラの大火が弾ける。それは両手もろともグラスを包み込み、穏やかだった水面から水の飛沫が上がった。
「おおっ!」
ズシが驚きの声をあげた。その間にも、グラスから勢いよく溢れ出す水はテーブルだけに留まらず床にまで侵食を始めている。
「……よろしい」
こめかみに汗を滲ませながらウイングが言った。

 繰り返される深呼吸は、離れたところから見守るの耳にもはっきりと聞こえた。ズシは眉間にしわを寄せ、グラスの両脇にそろそろと手を伸ばす。そして呼吸が落ち着いてきたところで、丸い目をより大きく見開いた。
 厚く膨れたオーラの中で、水面の葉っぱが左右へ踊るように揺れている。が恐る恐るウイングの様子を伺うと、彼は困ったように苦笑した。
「……あと一歩、というところですかね」
たしかに以前より顕著な結果ではあるものの、先のゴンに比べると物足りなさが拭えない。がっくりと肩を落としたズシに、これから四週間は同じ修行が続くという事実が告げられた。

 ついにの番がやってきた。いくら練習で幾度となく行なってきた動作とはいえ、皆の前で披露するとなるとやはり緊張が伴う。深呼吸を繰り返し、こわばっていた顔を上げると、穏やかに微笑むウイングと目があった。その瞬間、覚悟が決まる。
 の両手がグラスを挟んだ直後、無色の水が鮮やかなオレンジ色へと変化した。相変わらずの発動速度にウイングは感嘆の息を漏らす。
「うわぁ、絵の具を溶かしたみたいだね!」
そう言ってゴンが楽しそうに笑った。以前は薄めた色水ほどの透明度だったが、今回は向こう側の景色が見えないほどしっかりと色づいている。
「お見事です」
ウイングの言葉には胸をなでおろした。

 キルアはいつもと変わらない顔で前へ歩み出ると、ゆったりとした動作で両手を差し出した。途端、彼の纏うオーラが一気に重厚感を増しながら膨れ上がる。穏やかでありながら、なんとも力強い発動だった。
 変化系は皆と違って傍目から判別ができないため、切り上げるタイミングはキルア次第だ。
「……いいぜ」
キルアがそう言って両手を下ろしたのを皮切りに、各々が水に指を浸し始める。人差し指を口に含んだは一瞬混乱した。薄々覚悟はしていたものの、それをはるかに飛び越えた味だったのだ。
「すごい、はちみつみたいだ!」
ゴンが驚きの声をあげる。皆、濁りもとろみもない無色透明の水からこれほど強烈な甘みを感じるのは初めての経験であった。
「……すばらしい」
ウイングの賞賛にキルアは口角をほんの少し上げた。

 ウイングは表情を引き締め、皆の顔を見回した。
「ゴンくん、キルアくん、さん」
名を呼ばれ、思わず三人の背筋が伸びる。するとウイングはふっと口元を緩め、見慣れたいつもの笑みを浮かべた。
「三人とも、今日で卒業です」
ウイングの言葉に三人はきょとんと顔を見合わせた。少し遅れて、胸の内にじわじわと嬉しさが広がる。は今にも駆け出したい気分だった。
「そしてゴンくんにはもう一つ」
突然一人だけ名指しされ、ゴンの顔がこわばる。
「裏ハンター試験、合格おめでとう!」
そう言って満面の笑みを浮かべるウイングに対して、皆は聞き覚えのない単語に首を傾げた。

 犯罪抑止力として相応の強さが求められるハンターには、念能力の取得が必要不可欠である。しかしその破壊力ゆえ、悪用されるリスクは極限まで抑えたい。そんな考えから、表の試験に合格した者にのみ念を伝授するのだとウイングは言った。
「ちなみに心源流の師範はネテロ会長ですよ」
さらっと付け足された事実に三人の目が点になる。
「あなたたちのことは師範からいろいろ聞きました」
キルアが口元をひくつかせる。は、ひょうひょうと茶目っ気たっぷりに笑うネテロの顔を思い出した。
「キルアくん」
今度の指名はキルアであった。苦々しげに寄せられていた眉根が解かれる。
「ぜひもう一度ハンター試験を受けてください」
君なら次は必ず受かります、と続けるウイングの顔に嘘偽りはない。両脇で何度も頷くゴンとをちらりと見やり、キルアは呆れたように小さく息を吐いた。
「ま、気が向いたらね」
その返事でウイングは十分満足だった。

 素直ではないキルアの反応を笑って見ていただったが、ふと視線を感じ振り向いた。すると、暖かな眼差しをしたウイングが今度はこちらを見ていた。
さん。あなたも、ですよ」
「え……」
ウイングの力強い言葉には胸が熱くなった。今までずっと側にいた師匠が、自分にハンター試験合格の可能性を見ている。は自身の野望だけでなく、彼の期待も背負っていくのだと強く決意した。
「っ……必ず合格してみせます!」
そう威勢良く応える彼女の心には、もう一片の不安すらなかった。

 自身の心配事がなくなったは、先のウイングの言葉を思い出していた。表の試験に合格した者たち――試験後に別れの挨拶を交わした皆の姿が脳裏に浮かび上がる。
「ねぇ、ウイングさん」
同じことを考えていたのであろうゴンが声をかけた。
「試験に受かった他の人たちは今どんなか聞いてる?」
「えぇ。聞いていますよ」
ウイングはそう言って一呼吸置くと、皆の現状を話し始めた。

 クラピカとハンゾーは既に別の師匠のもと、念を習得済みであること。ポックルは練の段階で手こずっていること。レオリオは医大受験後に修行を開始するつもりであること。
 日々のあまりの目まぐるしさに、ハンター試験からもう半年が過ぎようとしていることにいまいち実感がないだったが、このとき初めて月日の流れというものを強く感じた。そして皆が着実に前へ進んでいるという事実が、まるで自分のことのように嬉しかった。
「そっか。みんな頑張ってるんだな」
ゴンはそう呟き、しみじみと微笑んだ。

懐かしの面々。