No.68 : Furious


 翌朝。出かける準備をしていたの部屋にノックの音が響いた。戸締りに気をつけるよう言いつけられていた記憶が蘇り、念のためドアスコープから外を確認する。そこには身支度を済ませたキルアの姿があった。
 ドアを開けた瞬間、キルアが安堵したように小さく息を吐くのが見えた。
「おはよう、キルア」
「おー。一緒に飯行こうぜ。中で待ってていいか?」
が頷くや否や、キルアはさっさと部屋の中に足を踏み入れる。そしてそのままソファに腰掛け、テレビに映るニュース番組へと視線を向けた。

 当初の予定では、各自朝食を済ませてウイングの部屋に集合という話だったはずだ。にも関わらず、キルアはまずの自室にやってきた。わざわざ問うまでもなく、昨夜ゴンから聞いた出来事を警戒してのことだろう。そして彼はそれをこのまま無かったことにしようとしている。
 は意を決して拳を握りしめた。たとえ自分にできることがなかろうと、何も知らない気楽な立場でいるのはごめんだった。
「昨日、あのあとゴンが来たよ」
キルアのこめかみが小さく動き、テレビへ注がれていた彼の意識がに戻る。詳細を語らずとも、先の言葉が何を示すのか理解したようだった。周りの空気がざわりと揺れる。は急に部屋の温度が下がったような感覚を覚えた。
「あいつら……」
まるで獣の唸り声のようだった。肌の表面が痺れるほどの殺気を迸らせながら、キルアは奥歯を噛み締めた。

 キルアは一人に一つずつ勝ち星を譲る代わりに、二つの約束を締結したという。一つはズシの身柄を引き渡すこと。そしてもう一つは、ゴンとの試合を諦めることだ。
 しかし、それをあの三人組はあっさりと反故にした。

 は内で燻っていた怒りに再び火がつくのを感じ、慌ててグラスの水を飲み干した。いま自分がしゃしゃり出たところで何ができるわけでもない。むしろズシと同様、脅しの種にされるのがオチだろう。
 そして、にとって今いちばん気がかりなことは別にある。
「キルア、ウイングさんとの約束は……」
昨日、戦闘準備期間ギリギリまで試合を行わないようにという言いつけがあったばかりだ。キルアはともかく、前科のあるゴンはもうこれ以上ウイングとの約束を破るわけにはいかない。ゴン本人は「なんとかなるよ」と笑っていたが、それが心からのものなのか強がりなのかは判断がつかなかった。
 の不安げな視線に気づいたキルアはイタズラっぽく笑ったかと思うと、目の前にある八の字眉の中央を軽く小突いた。
「大丈夫。そこは考えてある」
「さ、さすが」
彼の機転には今までに何度も助けられている。は途端に肩の力が抜けていくのを感じ、単純な自分の思考に自嘲の笑みを浮かべた。

 朝食を済ませた二人がウイングの部屋を訪れると、そこには既にゴンの姿があった。もちろんウイングの一番弟子であるズシも一緒だ。ウイングはキルアの顔を見るや否や、ズシの肩に手を置き、軽く頭を下げた。
「昨日はズシが世話になったそうですね」
「あぁ……まーね」
よくよく聞いてみると、帰宅途中に"疲労で"倒れてしまっていたズシをキルアが部屋まで送り届けた、というストーリーになっているらしい。ズシは気絶した前後の記憶が朧げなようで、キルアの作った話をうまく信じ込んでいる。
「それよりさ、オレもう凝できるよ」
これ以上掘り返すとボロが出ると判断したキルアが話題を変える。はハッとして思わず開いた口を慌ててつぐんだ。

 キルアは一瞬で全てのオーラを目に集めると、次々にヒソカの念を暴いていった。腕から伸びるオーラの糸は全部で十五本。トランプに十三本、スカーフに一本、うまく隠してある右腕へ一本。奇術の内容から推測するに、ゴムのように伸び縮みする性質を持っている――。
 ズシは青ざめた顔で言葉を失い、ウイングは感心したように両の手を打ち鳴らした。乾いた拍手が部屋の壁に反響する。
「いやぁ、驚きました。まさか二人とも一晩で凝をクリアしてしまうとは」
キルアの眉根が小さく震えた。
「……二人とも?」
その言葉に引っかかったキルアが周りを見回すと、居心地悪そうに頭をかくゴンと目が合った。どおりで、今日はやけに朝が早かったわけだ。

 キルアは小さく笑みをこぼすと、まっすぐにウイングの目を見つめた。にこやかに細められた瞳が優しくこちらを見下ろしている。
 彼の話では、試合日までに凝を習得することが課題であった。それはつまり、凝を習得しさえすれば試合日を早めることも可能なのではないか。
「オレ、どうしても試合したい日があるんだよねー」
キルアは一呼吸置き、最大限に誠実な顔を作ってみせる。
「五月二十九日。オレの誕生日なんだ」
真っ赤な嘘だった。

 キルアの演技にどれほどの効果があったかはわからないが、二人は無事、ウイングの許可を得ることに成功した。キルアの初試合は五月二十九日、ゴンは五月三十日である。それまでの修行は全て纏と練に充てるように、とウイングは言った。

 闘技場に戻る道すがら、ゴンは静かに怒りをたぎらせていた。脅しの矛先が他へ向く可能性も見てはいたが、まさか早速現実になるとは想像以上の外道ぶりだった。
「なんかますます勝ちを譲る気なくなってきたなぁ」
ゴンがぼやいた。あの三人組への信用はもはや皆無だ。今さら、こちらが約束通り動く必要は何一つないように思える。だからこそ、再びズシやに危険が及ぶ可能性を考えずにはいられないのだけれど。
 ゴンが苦々しげな顔で覚悟を決めかけたその時、背中を何者かに叩かれる。振り返ると、口の端を上げたキルアと目が合った。
「八百長はもう止めだ。あいつら思いっきりぶっ飛ばそうぜ」
何か考えがあるのだろう。後のことはオレに任せろと不敵な笑みを浮かべる彼の顔には、これ以上ないほどの説得力があった。