No.65 : Rouse


 その日のの足取りは軽かった。かねてより鬼門だった140階をついに突破したのだ。ストレートで200階まで到達してしまったゴンやキルアからすれば感慨も何もない単なる通過点だが、日進月歩のにとっては一つ階層が上がるだけでも一大ニュースだった。
 試合を見ていたキルアからいつものように改善点をいくつか受け取り、夕食の約束をしたところではひとり闘技場を後にした。特に何か目的があるわけではない。嬉しさのあまり、居ても立っても居られないのだ。

 昼下がりの大通りは相変わらずの喧騒に満ちていた。三月にしては珍しい陽気で、普段より薄着の者が多く散見される。そんな中、は見覚えのある分厚い道着の後ろ姿を視界の端に捉えた。
 偶然の出会いに思わず口元が緩んだ。は軽やかに速度を上げて後を追い、彼の肩を軽く叩いてみる。大きく体を震わせて振り向いたズシは、丸い目をさらに丸くして驚いた。
さん!」
「久しぶりだね」
ゴンの謹慎に合わせて念の修行を中断してからというもの、彼との関わりはパッタリと無くなってしまった。日々の鍛錬に忙しく、つい疎遠になってしまっていたけれど、こうして顔を合わせるとやはり嬉しいものだ。

 これから宿に帰るところだったというズシに同行させてもらい、二人はゆったりとした速度で並んで歩き始めた。 絶好の散歩日和だ。
「そういえば、140階突破おめでとうございます!」
ズシはまるで自分のことのように嬉々とした顔で言った。
「ありがとう。見てくれてたんだ」
さっそく人と喜びを共有できたは、だらしなくニヤけそうになる口元を無理やり引き締めて微笑んだ。まさかつい先ほど終わったばかりの試合結果を把握されているとは、夢にも思っていなかった。

 とは言え、闘技場内で他にこれといった知り合いのいないも、唯一の友人であるズシの戦歴には自然とアンテナを張っている。
「ズシも今朝70階で勝ってたよね。おめでとう!」
初日に50階への入場を許可されて以来、その前後でずっと燻っていたズシにとっても、今回の勝利は大きな一歩だった。不意を突かれたズシは勢いよく振り向くと、ほんの少し頬を上気させてはにかんだ。
「ありがとうございます!」
階数は違えど、一進一退を地道に繰り返して上を目指す者同士。今回の件がどれほど嬉しい出来事かは多く語らずともわかる。二人が顔を見合わせると、心の中だけに抑えきれなくなった喜びが、笑いとなって溢れ出た。

 ますます気を良くしたは、少し待つようズシに告げると小走りで炉端の出店へと向かった。日に褪せた水色と白のストライプ屋根の下で、何やら店員とやりとりをしている。行きと同じく駆け足で戻ってきた彼女の両手には、白く滑らかなクリームの乗ったコーンが二つ。
「はい。どーぞ」
ズシはぽかんと口を開けたまま、目の前に差し出されたソフトクリームとの顔を交互に見つめた。するとはいたずらっぽく笑って、半ば強引にそれを握らせる。
「お互いに勝利のお祝いってことで」
ようやく腑に落ちたズシの顔に、みるみる笑みが広がった。

 ぽかぽかと暖かな陽気の中で食べるソフトクリームは格別だった。そしてクリーム以上に蕩けそうな幸せいっぱいのを見て、ズシの胸は温かな何かで満たされた。これほど美味しそうに物を食べる人物を彼は他に知らない。
「隣でクッキーも売ってたからお土産にしようかなぁ」
いち早く食べ終わったは、そんなことを言いながら上機嫌でコーンの包み紙をくるくると丸めた。誰に、とは言及せずとも、ズシの頭の中にはゴンとキルアの姿がしっかりと浮かび上がった。

 ウイングから聞いた話によれば、ゴンは全治二ヶ月の怪我を一ヶ月で完治させ、今では何事も無かったかのように生活しているらしい。一見冗談かとも思えるようなエピソードだが、ズシは不思議とすんなり納得してしまった。彼の潜在能力は常人の基準から明らかに逸脱している。そしてそれはキルアに関しても同様だ。ズシにとってこの二人は別格であった。

 一方、に対してはどことなく親近感を抱いていた。念についてはともかく、易々と敵をなぎ倒していくような規格外の強さは彼女にはない。しかし歪だった構えは今や美しい型にはまり、緩慢な身のこなしも徐々にではあるが洗練されてきている。そんな彼女の成長は、ズシにとって日々の楽しみであり刺激だった。
 そしても、彼の言葉と姿に救われている。直接の接触はなくとも、二人は互いに互いを高め合っていた。

 ズシはコーンの残りを口に収めると、腰掛けていた階段から勢いよく立ち上がった。手中の包み紙を握りしめ、に向き直る。
「ソフトクリーム、ごちそうさまっす!」
よく通る、気持ちの良い発声だった。は気の抜けていた背筋をピンと伸ばすと、彼に対峙するように立ち上がった。ほんの少しだけ下にある彼の瞳は、真っ直ぐにを見つめている。
「一緒に修行できる日を楽しみにしてます」
ズシはそう言うと、お馴染みの構えをして見せた。
「……こちらこそ!」
も彼に倣い、両の拳に力を込める。清々しい彼の情熱に触れ、は決意新たに上を目指し始めた。