No.64 : Show


 ゴンたちと別れて試合会場のフロアへやってきたものの、ヒソカの試合が始まるまでにはかなりの余裕があった。キルアとは売店で買ったお菓子をつまみながら、程よい時間になるのを待っていた。
 ふと視線を上げたキルアは、天井から吊り下げられたモニターに何気なく目をとめた。長い銀髪を下ろした端正な顔立ちの男が、マイクへ向かって試合に対する意気込みを語っている。そして整っているのは外見だけに留まらず、話し方もスマートで誠実な印象を受けた。天空闘技場という男臭い世界には珍しく、女性ファンが多いらしいというのも頷ける。
「どんなゴリラかと思ったら……」
キルアがそう零すと、はチョコレートを頬張ったままモニターへ視線を向けた。
「へー、あれがカストロかぁ」
は気の抜けたような声で言い、手元の袋から新たな粒を取り出し口に放り込んだ。数種ある味の中でお気に入りに当たったらしく、聞こえるか聞こえないかという声で嬉しそうに小さく唸るのが聞こえた。

 キルアの胸に、なぜだか急に晴れやかな気持ちが広がった。そして一安心したところで、途端に首をもたげ始めたカストロに対する好奇心。幸い、試合開始まであと一時間はある。
「あー、オレちょっとだけ用事思い出した」
そう言ってキルアはこれからの"用事"に邪魔なドリンクを飲み干した。強めの炭酸が喉の奥を容赦なく突き刺す。
「わかった。ここで待ってるね」
はそう言うと、再びチョコを口に含みながらにこやかに手を振る。キルアは「すぐ戻る」とだけ言い残し、空になったカップをゴミ箱へ投げ入れると、単身、エレベーターへと向かった。

 しばらくして用事から戻ってきたキルアは、どことなく不機嫌な雰囲気を漂わせていた。居心地悪く思ったはたまらず尋ねた。
「なにかあったの?」
するとキルアは小さく息を吐き、の顔をちらりと見た。
「……カストロの部屋に偵察に行ってた」
「えぇっ!」
はキルアの行動力に唖然とした。さっきまでモニターで見ていた、初対面の人物の部屋に直接乗り込むだなんて普通誰が実行するだろう。
「あいつ、すげぇよ」
そう漏らすキルアの顔にはどことなく悔しさが見て取れた。どうやら接触を図ることには成功したようだ。あのキルアにこうまで言わしめるとは、武闘家カストロ、さすが過去にヒソカからポイントを奪っただけのことはある。途端、の中で彼に興味が湧き始めた。
「なにを見たの?」
がドキドキしながら尋ねると、キルアの口はいたずらっぽく弧を描いた。
「それは試合でのお楽しみ」
「えー! そんなぁ」
は情けない声で不満をぶつけたが、結局キルアが情報を明かすことはなく、試合開始までの彼の暇つぶしとしてまんまと利用されてしまったのだった。

 キルアが勿体つけていたものをが実際に目にしたのは、試合が始まってすぐのことであった。ヒソカはカストロの拳を確かに避けたはずなのに、次の瞬間にはしっかりとその身に打撃を受けていたのだ。にはまるでカストロの姿がブレたように見えた。
 そして今度の攻撃ではさらに顕著だった。ヒソカの前方から蹴りかかっていったカストロが、一瞬にして背後にいたのだ。がキルアに視線を送ると、彼は小さく頷いた。キルアがカストロの部屋で見たものは、まさにこの現象だった。

 目の前で繰り広げられる高次元の応酬から少しでも何かを得ようと、は必死に目を凝らしていた。しかし胴から切り離されたヒソカの右腕が宙を舞った瞬間、思わず目を背けそうになる。なんとか踏み止まったの視線の先で、ヒソカが動いた。
「なるほど。キミの能力の正体はダブル、だろ」
そう言って自身の腕を拾い上げると、ヒソカは楽しそうに口の端を上げた。その言葉に首をかしげる間も無く、カストロに変化が表れる。
「さすがだな。そのとおりだ」
これほどわかりやすく可視化された念の力を拝むのは初めてだった。カストロの輪郭が滲み始めたかと思うと、次第に残像は実体へと変わり、次の瞬間にはそこに二人の彼が存在していた。

 我が目を疑うとは対照的に、ヒソカは相変わらず飄々としている。自身の腕をまるで玩具のように弄びつつ、どこからともなく取り出した白いスカーフでそれを覆い隠した。
「今度はボクが予知能力をお見せしようか」
ヒソカはそう言って腕をスカーフごと宙に放った。しかし翻る布の中から表れたのは無数のトランプだけであった。
「この中から好きな数字を一つ頭に思い浮かべて」
彼の言葉は目の前のカストロだけでなく場内全体に向けられていた。突如始まったマジックショーに戸惑いつつも、観客たちは言われるがまま床のトランプに視線を這わせる。

 内容自体は、よくある数当てだった。思い浮かべた数字に対して指定した計算を行い、あらかじめ予想してあった答えをトランプで提示するというものだ。とはいえ戦闘中という非日常感が後押しするのか、観客たちはヒソカの作り出す空気にすっかり飲まれている。しかしその仕込み場所には誰もが顔を顰めた。

 ヒソカは薄い唇を釣り上げると、右腕の断面に左手を躊躇いなくねじ込んだ。いつの間にか緊張感が抜けかけていたの身体に再び戦慄が走る。あまりのおぞましさに顔を背ける者もいる中、ヒソカは探るように左手を奥へと進め、ついに目的の物を引きずり出した。
「答えはA(いち)。だろ?」
赤黒く濡れたトランプが彼の手中に収まっていた。

 その後の展開こそ、まさに手品のようだった。ちぎれていたはずの右腕がいつの間にか元通りになったかと思うと、地面にちらばっていたトランプがなんの前触れもなくカストロ目掛けて襲いかかる。もちろんウイングから教えを受けたにはこれが念によるものだと分かってはいるが、どのような原理で事が起きているのかは皆目見当がつかない。
 結局、二人の試合はヒソカの勝利という結果に終わり、KOの数イコール死人の数という血生臭い記録も更新されてしまった。

 ショックの強い試合内容には青い顔をしていたが、得たものもあった。の頭の中に「容量の無駄使い」というヒソカの言葉が強く残る。あれほどまでに見事な技の使い手が、実は能力の選択を誤っていたのだという衝撃。
 念というものの奥深さをまざまざと思い知ったは、充実感のあまり、しばらくその場から動く事ができなかった。

 夜風に当たろうと抜け出したその先で、は信じられないものを見た。一度は見間違いかと受け流しかけたが、どうにも胸の中に引っかかる。再度視線をやると、ちょうど良いタイミングで周囲の人混みがはけた。先ほどから気になっていた人物は、やはり彼女であった。
「マチ!」
名を呼ばれ振り向いた彼女の視線が、声の主を捉えた。それから数秒の間があり、意志の強そうな竜胆色が大きく見開かれる。
「……?」
探るように呟かれた声は、記憶の中のそれと綺麗に一致する。途端、は顔中の筋肉が緩むのを感じた。
「えへへ、覚えててくれたんだ」
「それはこっちのセリフ。あのとき五歳くらいでしょ」
両親が経営する料理店の馴染み客。人懐こいと、何だかんだで面倒見の良いマチは、まるで歳の離れた姉妹のようであった。いつからか彼女が店を訪れることはなくなったが、の幼少の思い出には彼女の姿がしっかりと刻まれたままだった。
「大きくなったね。料理、少しは上達した?」
父親の真似事をしてよくそこかしこに傷をこしらえていた姿を思い出し、マチは薄く笑みを浮かべる。も同様の記憶を呼び起こされ、恥ずかしそうにはにかみながら小さく頷いた。

 は改めてマチの姿をまじまじと見つめた。そういえば、彼女の服はズシの道着とよく似ている。
「もしかしてマチも闘技場の挑戦者なの?」
ふと湧いた疑問だった。闘技場の利用者数から考えれば、今まで偶然鉢合わせなかったのだとしてもなんら不思議はない。しかしマチはあっさりと首を横に振り、ふいと視線を逸らした。
「……仕事で出張してきただけだよ」
仕事とは何なのか、今どこでどんな暮らしをしているのか。の疑問はまだまだ尽きないが、それを声に出すことはできなかった。昔からそうだ、彼女は決して身の上を語らず、もそれを追求しない。深く踏み込んだ途端に終わりを迎えてしまいそうな予感をは子どもながらに感じていた。
「また、会えるかな?」
せめてこれだけは、とは口を開いた。それは単なる問いではなく、願いでもあった。
「さあ、どうだろうね」
マチはの頭に優しく手を置いたかと思うと、夜の闇に紛れるようにふわりと姿を消した。は慌てて辺りを見回すが、行き交う者達の中に彼女を見つけることは叶わない。まるで夢から覚めた時のように、の胸に小さな喪失感が残った。