No.62 : Spell


 キルアは、目の前で水分補給しているの姿をじっと見つめた。ここ最近、彼女の様子がおかしいのだ。試合中は相変わらず真剣そのもの、すっかり日課となった組手においても日を追う毎に少しずつ動きのキレが増している。しかし問題は休憩中にあった。
「……の顔に何かついてる?」
ようやく視線に気づいたが、ほんの少し動きを固くしながらキルアを見た。
「いや。なんにも」
キルアはあっさりとそう言って視線を外した。しばらく自動販売機の広告や品揃えを眺めてみたが、依然頭の一部は彼女への違和感に占有されてしまっている。
「……お前、最近なんかあった?」
ついに耐えきれなくなって切り出した。
「ううん。なんにも」
は食い気味にそう言うと、持っていたミネラルウォーターを一気に煽った。ますます不信感を募らせたキルアだったが、恐らくこの場で粘っても平行線だろうという結論に至り口を噤む。――休憩の終わりを告げるアラームが鳴った。

 その日の夜、キルアはついに作戦を決行した。
 外での夕食から戻った三人は、共に闘技場のエレベーターへと乗り込んだ。階数の関係でだけはいつも先に単独降りることになるのだが、今回は違う。キルアは彼女に気づかれぬよう音もなく背後に降り立ち、そのまま物陰を利用しながら後をつけた。ちなみに、ゴンには先に事情を説明し、自分のことは気にせず部屋に戻るよう言ってある。

 は鍵を開けて自室に入ったかと思うと、すぐにまた外へ出てきた。そして施錠を済ませ、来た道を戻って行く。キルアは再び後をつけ、彼女の押したボタンから目的地が下階であることを確認すると、別のルートを使って一階へと急いだ。

 しかしはいつまで経っても一階のエレベーター前には現れなかった。五分ほどその場で粘った後、キルアはハッとして階段へと走った。彼女の行き先は街中ではなく、おそらく塔の内部施設。
 キルアの読みは当たっていた。下から総当たりで確認していった結果、三つ目のトレーニングルームにの姿を見つけた。ここは二十四時間いつでも開放されており、闘技場の挑戦者ならば自由に利用することができる。
 もともと、三人の予定はそれなりに詰まっている。ゴンと共に燃の修行に打ち込み、毎日組手も欠かさないし、各々筋力のトレーニングだって行なっている。だからこそ夜には疲れ切り、一刻も早く寝てしまいたいくらいなのだが、はどうやら違うらしい。部屋の奥で汗を流している彼女を目にしてようやく点と点が繋がったキルアは、小さく息を吐くと、意を決して一歩を踏み出した。

 休憩の二文字が頭をよぎったの目の前に、見覚えのある――いや、ありすぎる柔らかな銀色が揺れた。
「よっ」
軽快に右手を上げたキルアがこちらに向かってきていた。の意識の全てが彼の姿に集中し、握力が一瞬途切れる。手のひらから滑り落ちたバーベルが地面とぶつかり、けたたましい地響きを立てた。
「うお、あっぶねー。大丈夫かよ」
キルアは思わず歩みを止め、大きく二回瞬きをした。
「ごめん、びっくりしちゃって」
そう言っては申し訳なさそうに苦笑する。幸い彼女に怪我はなかった。

 おなじみのベンチに二人並んで腰掛ける。いつもの流れなら、どちらからともなく何気ない会話が始まり、休憩時間いっぱい話に花を咲かせているはずの空間。しかし今はなんとなく、お互いに口が重かった。
「き、奇遇だね」
は半ばやけになりつつ、ありきたりな言葉で切り出した。するとキルアはバツの悪そうな顔をして後ろ頭をかいた。が首をかしげる。
「……悪い。じつは後つけてた」
キルアの口から出てきた言葉には目を丸くした。彼の存在に気づくどころか、わずかな違和感すら感じなかった。しかし、彼の生い立ちを考えればすぐに腑に落ちる。
「休憩中たまに意識飛んでたろ。なんかおかしいと思ってさ」
こちらは思い当たる節があった。昼間の問いをうまくかわしたつもりであったが、しっかりとマークされていたらしい。

 キルアは小さく息を吐くと、の頭に手を置いた。
「ちゃんと伸びてんだから焦んなって」
「うん……」
口ではそう言うだったが、納得いかない気持ちが眉間の皺に表れている。キルアは説得を諦め、後ろに手をついた。しばらくそのまま天井を見上げていたが、突然何かを閃いたように「そうだ」と声を上げた。
「なぁ。おまえ、おまじないとか信じるほう?」
突拍子もない問いにはしばらく思考が働かなかった。
「んー、積極的にはやらないけど好き、かも」
必死になって縋り付いたりはしないが、ほんの少しの期待を込めて楽しむ程度の信仰心はある。が興味を示すと、キルアは内緒話をするときの距離感で口を開いた。
「むかし親父から教えてもらったんだけどさ」
声のトーンを落としつつ、キルアは真剣な顔で続けた。

――理想の自分に近づけるおまじない。まず目を閉じるだろ。そんでゆっくり深呼吸しながら心の中で百まで数える。いいか、焦らずゆっくりだぞ。いち、にい、さん……。

 右肩に感じた重さと温もり。わずかに聞こえてくる寝息にキルアは小さく噴き出した。脱力した彼女の体をゆっくりと抱き上げる。特別に気をつけているわけでもないのに、起きるそぶりは全くない。どれだけ無理をしていたのだろう。
 強くなるなら休息も大事。完全に嘘ってわけでもないよな――心の中でそんな言い訳をしながら、キルアはを部屋へと送り届けた。

おやすみ。