No.52 : Lose


 天空闘技場で修行兼小遣い稼ぎを開始してから四日目のこと。はここへ来て初めての黒星を経験した。
 もともと身のこなしが並以下だったところへ、単純にパワーのみが上乗せされただけのの戦闘力では、一度攻撃を躱されてしまうと致命的なのだ。
 恐ろしく強い蹴りの少女が居るという噂は既に周囲に知れ渡っており、それはもちろん対戦相手の耳にも入っていた。初撃を警戒した相手はうまく蹴りを躱すと、即座にカウンターを仕掛け――あとは相手の独壇場だ。
 これに勝てばようやく個室が与えられるという段階での敗北。のショックは一段と大きかった。

 夕食を済ませた三人は、三日間世話になった宿へと向かった。しかし昨日までとは違い、今日ここに宿泊するのはただ一人。ゴンとキルアは初戦から相変わらずストレートで勝ち続けており、ついに個室を獲得したのだ。
 ドアの前にたどり着き、別れの挨拶をしようと振り返ったの顔には陰りが見えた。
「もとから部屋は別々だったけど、なんか寂しいね」
そう言っては無理矢理に笑みを作る。心情についてはともかく、連絡手段がない状態で寝泊まりする場所が離れてしまうと、何かと不都合が多いのも確かだ。
「じゃあオレの――」
部屋に来れば、と自然に出かけた言葉をキルアは咄嗟に飲み込んだ。今まであまり意識したことは無かったが、は女の子だ。飛行船で共に夜を明かしたことは何度かあるけれど、それとこれとはまた状況が違う。
「なんでもない。早くここまで上って来いよ」
そう言うとキルアはの背中をポンと叩き、足早にその場を去った。思った以上に素っ気ない態度を取ってしまったが、フォローに戻る心の余裕は今の彼にはなかった。

 次第に遠ざかっていくキルアの後ろ姿を見つめていると、横に居たゴンが口を開く。
ならきっと大丈夫だよ」
真剣な眼差しが、の弱気を打ち抜いた。使用人小屋で何日も共に鍛錬を重ねたからわかる。単なる機嫌取りではなく、本心からそう信じている顔だ。
「ありがとう、ゴン」
ぐちゃぐちゃに絡まっていた無力感や焦りがゆっくりと解かれていく。その日のの夢見は思ったより悪くはなかった。

 翌日、闘技場へと向かう道中で、は偶然にもズシと鉢合わせた。初日にほんの少し会話した程度の知り合いだったが、互いにインパクトが大きかったため遠目でもすぐに気づいた。
 目の前までやって来たズシは、ほんの少しだけ気まずそうに視線を揺らしつつの顔を見上げた。
さん、昨日……」
の敗北の知らせはズシの耳にも届いていた。それと同時に、ゴンとキルアの快進撃も。共に行動している仲間のうち、自分だけが置いて行かれているの状況を気にしてくれているようだった。
「師範代からの受け売りなんですが」
そう前置きすると、ズシは黒目の大きな瞳でまっすぐにを見つめた。あまりに真剣な眼差しに圧倒されそうになる。
「ここは負けるための場所だと思うっす」
それは確かに一理あった。もしこのまま運良く一発KOだけで勝ち進んでいれば、基礎が足りないことに気づかぬまま、容赦のない外の世界で殺されていたかもしれない。鼻先をへし折られたのがここで本当によかった。
「ありがとうズシ。……、もう大丈夫」
そう言っては心からの笑みを浮かべた。胸中のもやはすっかり霧散しており、その代わりに湧き上がるズシへの感謝。
 始まりがあまりに好調で、つい図に乗ってしまっていた。出会ったときからずっと、あの二人と横に並べていたことなんて一度としてなかったではないか。ゆっくりでいい、追いかけよう。
 は改めてもう一度礼を言うと、彼と共に天空闘技場へと向かった。

 蹴りは確かに威力があるけど隙もでかい。今のお前だったら素直に押し出しか拳がいいと思う。――昨夜の夕食時にキルアから受けたアドバイスだ。
 は早速キルアの助言を実行に移した。すると今度の攻撃は空振りすることなく相手に命中。威力が落ちたぶん一発KOというわけにはいかなかったが、初撃のダメージが残った体には追撃が良く入る。は的確に打撃を重ね、あっという間に10ポイントを稼いだのだった。

 その日の夜、夕食を済ませたはキルアの部屋を訪れた。ノックをすると気の抜けたような返事が聞こえ、しばらくしてゆっくりとドアが開かれる。相変わらず足音はなかった。
「こんばんは。あれ、ゴンは?」
出てきたのはキルアだけであった。部屋の中にも姿はない。てっきりいつものように二人一緒に過ごしているのだと思っていたは小さく首を傾げた。
「ゴンは部屋にこもってる。ミトさんに手紙だとさ」
ミトさんというのは、ゴンの育ての親の名前だ。今は故郷のくじら島で祖母と二人暮らしをしているらしい。二人だけの秘密特訓中にゴンから聞いた、たくさんのエピソードの内の一つだ。
「それよりどうしたんだよ、こんな時間に」
キルアはを部屋に招き入れると、椅子に腰掛けるよう促す。しかしはその場から動くことなく、神妙な面持ちでキルアをじっと見つめた。
「キルア、お願いがあるんだけど」
はそこで一旦区切ると、大きく深呼吸をした。キルアは黙って次の言葉を待っている。
の組手の先生になってください」
そう言っては深く頭を下げた。今日の試合が終わってから、ずっと考え続けてようやく結論が出た考えだった。しかしキルアは驚くどころか、妙に納得したような顔をしている。
「あぁ。それちょうどオレも考えてたとこ」
「えっ!?」
意表を突かれたのはの方であった。弾かれたように顔を上げる。自身に何のメリットもない提案をこうもあっさり承諾されたこと自体も勿論だが、 まさか相手も同じ考えを持っていたとは。
「ただし容赦はしないからな」
そう言ってキルアはいたずらっぽく笑った。

弟子入り。