No.49 : Boy


 はリング上のゴンを凝視したまま、何度も大きく瞬きをした。視界の端に、動かなくなった男が担架で運ばれていくのが見える。
「なにあれ、魔法?」
思ったままを口にすると横のキルアが噴き出した。
「まさか。単純に腕力で吹っ飛ばしただけだよ」
「ふぅん……すごいんだなぁ、ゴン」
勢いよく向かってくるあれだけの巨体を、軽く繰り出した片手の突っ張りだけで。が腕を組んで素直に感心していると、突然キルアが右肩を軽く叩いた。
「呼ばれたぜ。Dのリングだとさ」
「えっ!」
自分の世界に入っていたせいで、アナウンスに気が付かなかったのだ。はキルアに礼を言って立ち上がり、階段を駆け下り――ようとした。キルアの目の前を横切ったところで、軽く手を引かれる。
「さっきの、たぶんお前にもできるよ」
キルアはそう言うと、自信ありげに口の端を上げてベンチへ座り直した。は半信半疑だったが、彼の余裕な態度に感化されたのか、一歩踏み出す度に胸の中から緊張が消えていくのを感じた。

 の対戦相手はゴンと同じく、自身の何倍も大きな筋骨隆々の大男だった。ただひとつ違うのは、彼が相手を見る際の視線だ。
「嬉しいなぁ、こんな可愛い子と組み合えるなんて」
男はそう言って舌なめずりをした。これから戦う相手に掛ける言葉とは思えない台詞に、の顔が引き攣る。まるで背中を毛虫が這っているような不快感に冷や汗が止まらない。――試合開始のコールがどこか遠くから聞こえた。
「大丈夫、大人しくしてれば痛くはしないよ……」
男がゆっくりと近づいてきた。後ずさりしそうになるのを必死にこらえる。先ほどのキルアの言葉を思い返し、狙いを定めると、視界いっぱいに飛び込んでくる男の不快な表情。
 ついに耐えられなくなったは、全身全霊の力を込めて反射的に男を蹴り飛ばした。始めはゴンと同様押し出しで突破するつもりだったのだが、手で触れることすら御免だと思い至った結果だった。

 男の身体はまるでボールのように真っ直ぐ場外へ飛んで行き、音を立てて壁にめり込んだ。は自分の足と壁の穴とを交互に見比べ、審判に声を掛けられたところでハッとした。周囲の音が戻ってくる。一瞬で勝負がついたにも関わらず、恐ろしく精神力を削られた戦いであった。

 手渡された50階へのチケットを握りしめ、はゴンたちの元へと向かった。二人と手を打ち合わせてベンチに座ると、どっと疲れが押し寄せてくる。
「何かあったの?」
どこか浮かない表情のにゴンが声をかけた。
「対戦相手が少しおかしな人だったから」
ゴンには悪いがありのままを話す気にはなれず、は言葉を濁した。すると横で聞いていたキルアが立ち上がり、の背中をポンと叩いた。
「ああいう奴は大抵弱い。お前なら負けないよ」
何となくではあるが、過去の経験から察したらしい。がゆっくり顔を上げると、ちょうどキルアの番号に呼び出しがかかった。
「んじゃ、ちょっと行ってくる」
そう言って軽い調子でリングへ向かったキルアは、そのまま手刀一発であっさりと勝利を収めてしまった。対戦相手側に賭けていたのであろう観客達の落胆の声が木霊する。

 キルアの見事な完勝っぷりに見惚れていたは、周囲の関心がすぐ横のリングへ移っていることに少し遅れて気がついた。そちらへ視線を向けると、自分たちよりも幼い道着姿の少年が50階への入場を許可されているところだった。

 何とは無しに向かったエレベーターで、三人は先ほどの少年と相乗りになった。短く刈り揃えた坊主頭に、意志の強そうな太い眉。大きな瞳をキラキラと輝かせながら、少年が距離を詰めてきた。
「さっきの試合、拝見しました!」
流暢にタワーの説明をする添乗員の声を綺麗に無視して、少年が熱く語り始める。そのままの流れで互いに名前を紹介し合っていると、エレベーターが目的の階で移動を止めた。そして控え室に向かって歩きながらも会話は続く。
「そういえば、みなさんの流派は何ですか? 自分は心源流拳法っす!」
ズシというらしい少年は立ち止まり、拳法の構えをして見せた。ゴンたち三人は揃って顔を見合わせる。
「流派……ないよな?」
キルアの言葉に頷くゴンと。するとズシは先ほどまでの食いつきが嘘のように、がっくりと項垂れてしまった。
「誰の指導もなくあの強さなんすか。自分、ちょっとショックっす……」
ゴンやキルアはともかく、に関しては護身術レベルの体技に門番仕様の筋力トレーニングで単純にパワーが乗っただけだ。は三人一緒に天才扱いを受けていることに対し、若干の申し訳なさを感じていた。

 突然、廊下の奥から聞こえてきた軽快な拍手。
「ズシ、よくやりました」
寝癖混じりの黒髪と、はみ出したシャツの裾に少々だらしない印象は受けるものの、眼鏡の奥から覗く瞳は柔らかな光を湛えている。現れたのは、なんとも人の良さそうな青年だった。
「師範代、またシャツが……」
「あぁっ、ごめんごめん」
ズシの指摘を受け青年は慌てて裾をズボンにしまい込んだ。また、ということは恐らく日常茶飯事なのだろう。師範代という肩書きがどこか浮いている。

 ズシはゴンたち三人の名前を紹介し、青年は自身をウイングと名乗った。ウイングは穏やかな笑みを浮かべながら、三人の顔をぐるりと見回した。
「ズシ以外にも子どもがいるなんて驚いたよ」
確かに入場してから今まで、この場の四人以外に子どもの姿を見た覚えはない。
「ここまで来るくらいだからそれなりの腕なんだろうけど、くれぐれも自分と相手、相互の身体を気遣うようにね」
ウイングの物柔らかな諭しは自然と耳に馴染み、初対面にもかかわらず素直に胸に染み込んでくる。
「押忍!」
三人は声を揃えて応えた。最初は何だか頼りない印象だったが、いつの間にか皆、彼を指導者として認め始めていた。

まずは一勝。