No.40 : Heart


 いつものように、帰宅した主人に深く頭を下げる。
「おかえりなさいませ、キルア様」
それに対する主人の返事はというと、無言だったり、饒舌だったりと気分によって様々だ。しかしその日のキルアは普段と何かが違っていた。
「……できたんだ」
すれ違いざま、聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声で、キルアは言った。しかし、これだけでは何の話やら要領を得ない。
「え?」
せっかく彼が発してくれた言葉をこのままうやむやにしたくはない。カナリアが遠慮がちに聞き返すと、さらに小さな声でキルアは呟いた。
「ともだち」
カナリアにはたしかに、そう聞こえた。

 一瞬の走馬灯。カナリアが目を開くと、満身創痍の少年と少女がこちらを見据えて立っている。しかし、これほどまでに痛めつけられても、その瞳に憎しみの色は見えない。いま彼らの胸の内にあるのは、きっとただ一つの願いだけなのだろう。

 カナリアのステッキが弧を描き、の左腕を強く打ち付けた。もう何度行われたかわからないこの応酬。はなから避けるつもりのない二人は、全ての打撃をその身に受け続けていた。放物線を描いて地に落ちた彼女は痛々しく咳き込むと、それでも自分の力でゆっくりと立ち上がった。
 二人のキルアに対する熱意は既に十分すぎるほど伝わっていた。しかしカナリアには、この門を守るという使命がある。そして、主人の命令を全うすることで、それは巡り巡ってキルアのためになると信じていた。
 しかし、なぜだろう。何年も誇りを持って続けてきたはずのこの行為に、先程から胸がざわざわして仕方がないのだ。

 数年前、百人の侵入者を全員返り討ちにしてやったときには、こんな感情は微塵も生まれなかった。彼らの目的は単純な侵略だったからだ。だがこの二人を前にして、カナリアの中で、抱いてはならない思いが芽生えつつあった。

 重い体を引きずるように、ゴンは歩みを止める事なくこちらへ向かってくる。腫れ上がった瞼の下では、未だ強い光を湛えたままの瞳が真っ直ぐカナリアを捉えていた。
「やめてよ……もうこないで!」
打撃音が響くのみだった森に、カナリアの叫びが吸い込まれていく。空はいつのまにか茜色を帯びていた。
 自分の行動理念は――侵入者を排除する――ただそれだけ。何度挑んでこようが、カナリアにここを通すつもりはない以上、二人は無駄に傷を増やすばかりだ。
「あんたたちも止めてよ! 仲間なん……」
ヤケになってクラピカとレオリオに視線を送ったカナリアは、言葉を失った。彼らの瞳にはもはや、仲間の外傷の心配どころか、引く引かないという葛藤すら存在していなかった。

「なんでかな。友達に会いにきただけなのに」
ようやくカナリアの目の前までたどり着いたゴンが、自嘲気味に呟いた。ここへ来て初めて見せる彼の態度にカナリアは一瞬たじろぐ。しかし次の瞬間、勢いよく顔を上げた彼の目は光を失ってなどいなかった。
「キルアに会いに来ただけなのに、なんでこんなことしなきゃならないんだ!」
怒号とともに左側から襲いくる拳を避けようと身構えたカナリアだったが、その動作は無駄に終わった。ゴンの打撃は彼女を狙ったものではなく、その横にある石柱を打ち砕いたのだ。

 柱は見事に原型を失い、ただの歪な石の塊と化した。肩で息をするゴンの拳からは、血の雫と一緒に細かな石片がパラパラとこぼれ落ちる。カナリアは瞬きも忘れ、突然の出来事を呆然と眺めていた。
「ねぇ」
突然声をかけられ、カナリアは肩を揺らした。ゴンの指が示す方向に視線を向けると、彼の足が、地面に引かれたラインの上を踏みつけている。
「オレのこと殴らなくていいの?」
ゴンの問いに、カナリアは唾を飲みこみ、ステッキを握り直した。

 しかしそれを振るおうにも腕が動かない。主人への忠義は変わらないはずなのに、身体がそれを拒むのだ。
「君にはミケとは違って心がある」
何十発と殴られた後とは思えないほど、相変わらずの穏やかな声でゴンは言った。そんなもの、この仕事についた時点でどこかに置いてきたものだとばかり思っていた。カナリアがゴンの顔をまじまじと見つめると、彼はしたり顔で口の端を上げた。
「キルアの名前が出た時、一瞬目が優しくなった」
自分でも気づいていなかった心の機微を指摘され、カナリアは内心狼狽えた。

 彼らに対する疑心など、とうに消え去っていたが、カナリアはこの時あらためて確信した。彼らは正真正銘、キルアの友達なのだということを。そして彼らならば、到底自分には成し得そうもないこの願いを、きっと叶えてくれるだろうと。
「お願い」
語りきれない想いが涙となって溢れ出す。
「キルア様を助け――」
カナリアの言葉が最後まで紡がれることはなかった。一発の乾いた銃声が、森の空気を揺らした。

カナリアの願い。