No.36 : Reason


 バケツに水を汲み替え、よたよたとした動きで家まで戻ると、はいよいよ途方にくれた。押す力を弱めると自動で閉まっていく扉のうまい攻略法が思い浮かばないのだ。外へ出る際は、扉が閉まる前に思い切りバケツを放り投げればよかったが、中に水が満ちている今、それはできない。

 まだ体力に余裕があった時でさえ、片手で扉を開くことはできなかった。となると後はやはり、両手で扉を開き、急いで水入りバケツを外から中へ移動させるという正攻法しか残されていない。この重りをつけた状態でそんな早業がこなせるのだろうか――。
「い゛っ!」
悩んでいても埒が明かないと早速挑戦してみただったが、あと一歩のところで指先に走る激痛。運良く水は溢れなかったが、閉まる扉に指を挟んでしまったのだ。

 はあまりの痛みに涙目になりながらも、ぐっと堪えて症状を確認する。左手の中指の先が真っ赤に腫れていた。一つ目の作業で立て続けに失敗し、別の意味で泣きそうだなとため息をついたとき。
? そんなところで何やってんだ?」
あくび交じりに上階から降りてきたレオリオが、眠そうな声を出した。しかしの指先を見るや否や、すぐに合点がいったのか慌てて駆け寄ってくる。と言っても、彼も重りをつけているため、あくまで彼なりの全速力に過ぎないのだけれど。

 レオリオはの手を取り患部を確認すると、すぐさまキッチンから氷入りの袋を取ってきた。
「ちょっと動かしてみてくれるか」
言われた通りに指を動かすと、わずかに痛みが強まる。は苦痛に顔を歪めながらも、レオリオの指示に従った。
「違和感はないか?」
コクリと頷くを見て、レオリオはすぐそばにあったバケツから汲みたての水を少量、袋へ移した。
「すまん、ちょっともらうぜ」
慣れた手つきで袋の口を縛ると、レオリオは再びの手を取り、氷袋を患部に優しく押し当てた。その冷たさに、の肩はぶるりと震える。

 レオリオから袋を受け取り、しばらく冷やしていると、あれほど強烈だった痛みが徐々に引いてきているのには気づいた。患部を確認しようと氷袋をずらす。
「ありがとう。なんだか良くなってきた」
「まだ離しちゃダメだ。あと十分は冷やしてろ」
離しかけた袋を再度押し当てられ、は小さく頷いた。それにしても処置の的確さと口調の柔らかさ、どっしり構えたこの感じを見ていると、なんだか――。
「レオリオってお医者さんみたいだね」
何気なく零した一言に、レオリオは目を丸くする。それを見たは、一次試験で地下から脱出した際に失言した記憶が蘇り、また何かまずいことを言ってしまったかと、恐る恐る彼の顔を見上げた。
「ご、ごめん。気に触った?」
するとレオリオが噴き出すものだから、今度はが目を見開く番だった。

 は指を冷やしながら、レオリオの昔話をじっと聞いていた。今ここにきてようやく彼がなぜハンターを目指していたのかを知り、彼がハンター試験に合格した事実を改めて噛み締める。すると、まるで自分のことのように喜びが溢れ出し、胸がじんわりと温かくなった。
「……人のこと父親だとかなんとか言うけどな、お前なんかいま孫を見る婆さんみたいな顔してるぞ」
レオリオが笑い混じりにそう言って、の額を小突く。やはり少し根に持っていたようだった。

 レオリオに言われた時間ぶん、きっちり冷やしきると、の指の具合はだいぶ良くなった。まだ少し痛みは残るものの、大事には至っていないようだった。
「本当にありがとう。歩くのも大変なのに」
氷水を片付けるレオリオの背中には声をかけた。返ってきたのは「おー」という字面だけ見れば無愛想にも思える返事だったが、その声色は温かだった。

 皆が起き出すと、家の中は途端に騒がしくなった。一番に身支度を済ませたゴンが、匂いにつられてダイニングに顔を出す。そしてテーブルの上を見た途端、瞳を輝かせた。
「うわー、美味しそう!」
おしゃれなカフェに迷い込んだかのような、豪華な朝食がそこにはあった。するとが新たな料理を追加しに奥から現れた。重すぎて、一皿ずつしか運べないのだ。
「おはよう、ゴン」
鉄球を落としたような音とともに、カラフルなサラダのボウルがテーブルを彩った。その直後、ゴンの腹の虫が鳴る。
「おはよう! オレ、みんなを呼んでくるね!」
待ちきれない様子のゴンは、いま自分が出せる最大のスピードで部屋を出て行った。

 門の番をしているゼブロを除いた全員が食卓に着くと、挨拶を済ませた途端、料理の争奪戦が始まった。
「あっ、それオレが取ろうと思ってたやつ!」
ゴンの目の前を彩り鮮やかなサンドウィッチが通り過ぎていく。
「ただ念じてるだけじゃダメだぜゴン。悪いな」
そう言ってレオリオは勝ち誇った笑みを浮かべ、最後の一つを頬張った。

 シークアントは黙々と料理を口に運びながら、見たことはないがおそらくあっちもこんな感じなんだろうかと、住む世界の違う本邸の生活に想いを馳せていた。
「朝からすごいな。大変だったんじゃないか」
クラピカがナイフでオムレツを切りながらに話しかけた。食べ方こそ上品だが、もうかれこれ三回ほどおかわりをしている。
「実はそこまで手間のかかるものはないんだ」
朝食だしね、と言っては笑った。それにお金持ちなだけあり、食材の使い惜しみをする必要はないと事前に言われていたことも理由の一つだった。からすれば、美味しいものをたっぷり食べたいという自分の欲望に忠実に従ったまでだ。
 彼女の指にはさっそく何枚もの絆創膏が巻かれていたが、それはこの先の過酷な訓練のほんの序の口でしかないのだった。

珍しくレオリオと。