No.35 : Determination


 石造りの廊下に響き渡る二つの足音。凛としたヒール音の後をどこかあどけなさの残る下駄の音が追いかける。その主たちは重い扉を開け、仄暗い小部屋へと足を踏み入れた。そこには手足を錠で繋がれたゾルディック家の三男・キルアが傷だらけで佇んでいる。
「キル? 少しは反省したかしら?」
キルアの母・キキョウが猫撫で声で息子に話しかけた。フリルをたっぷりとあしらった黄蘗色のドレスを身に纏い、揃いの帽子の下では、包帯とゴーグルで顔の大部分を覆い隠している。
 その横に控えているカルトは、まっすぐに切りそろえた肩までの黒髪と女物の和服という装いで、一見少女のような姿をしているが、実はこの家の五男である。しかし彼はあまり前へ出る質ではなく、ここで口を開く気配はない。

 愉悦顔で鞭を片手にキルアと対峙しているのは次男・ミルキ。この家系で唯一、暗殺者というイメージにはそぐわない、ずんぐりとした巨体の持ち主だ。
「ダメだよママ。こいつちっとも反省しちゃいない」
ミルキは縋るような視線を母へ向けたかと思うと、再びキルアに向き直った。黒目の大きな瞳が三日月のように細められ、口元には歪んだ笑みが浮かぶ。
「もっと灸を据えてやらないと……」
「ミルキ、お前は黙っておいで!」
キキョウの甲高い叱責が飛んだ。ミルキはなおも罵りたがっている口を不満げに噤むが、抑えきれない苛立ちが舌打ちとなって外へとこぼれ出た。
「キル。あまり意地を張らずに、反省したと一言いえばいいのよ」
キキョウはミルキに対する口調とは正反対のトーンでキルアに擦り寄るが、キルア本人はというと、目の前で起きている出来事など至極どうでもいいようで、視線一つ動かす様子はない。

 この状況がいまいち面白くないミルキはあっさりと母の言いつけを破り、再び口を開いた。
「そういや、お前の友達とかいう奴らが訪ねてきてるらしいぜ」
何の色も写していなかったキルアの瞳に、光が戻る。窘めようとするキキョウの声を無視して、ミルキは続けた。
「しかもそのうち一人は女の子だっていうじゃねぇか」
ハッと顔を上げたキルアを見て、ミルキはほくそ笑んだ。先ほどまで自分のことを無視し続けてきた弟を、今はこちらが翻弄している。この状況が愉快でたまらないのだ。
「おまえ、本当は外へ何しに出て行ったんだかな?」
そう言って下卑た笑みを浮かべるミルキの背後で、その発言に込められた意味の下品さにキキョウは「まあ!」と悲鳴をあげた。すると仕置中ですらうめき声一つ漏らさなかったキルアが、あっさりと言葉を発した。
「黙れ」
年に一度見るか否かの、本気で切れた時の重低音。ミルキは我が弟ながらその気迫に圧され、しばらく冷や汗がおさまらなかった。

 次の日、朝早く目が覚めたは居ても立ってもいられなくなり、皆が起き出すのも待たずに自分の役割をこなし始めた。まず最初は井戸での水汲みだ。
 家を出るだけで、の息は全力疾走したかのように上がりきっていた。歩くだけでも苦行なのだが扉は特に曲者で、力を抜くと閉まり始めるという試しの門と同様の性質に何度か邪魔をされてしまった。
 井戸の前に着くと、一旦息を整えてから桶を下ろし始めた。この桶も例に漏れず訓練用の特別製で、気を抜くと井戸の底に自分ごと引き込まれてしまいそうなほど重い。そのため水が汲めたかどうかは感触では分からず、音のみでの判断となる。
 ある程度下ろしたところで水が桶の中に吸い込まれる音が聞こえ、そして静かになった。縄が手のひらに食い込む痛みに顔を歪めつつ、やっとの思いで手繰り寄せると、桶の中に澄んだ水がなみなみと満ちていた。

 は達成感に小さく息を吐き、桶の取っ手を掴もうと手を伸ばした。しかし両手持ちですら苦戦していたものを片手のみに切り替えるには、少しばかり心の準備が足りなかったらしい。手の中の綱がするりと滑り、目の前を桶が通り過ぎていこうとした――瞬間。右側から伸びてきた腕が、桶の取っ手をしっかりと掴んだ。見ると、いつの間にかシークアントがすぐ隣に立っていた。
「ほらよ。今度からは気をつけるんだな」
ぶっきらぼうに桶を渡され、その重みに思わずよろけるが、ここで零してしまうわけにはいかない。は慌てて踏みとどまった。
「あ……ありがとうございます」
そう言って頭を下げると、桶の水が小さくはねた。

 昨夜の印象からして、彼は自分たちのことを嫌っているのだとは思っていた。しかし不意に現れ助けてくれただけでなく、すぐに立ち去る気配もない。そんな彼を置いて自分だけ戻るわけにもいかず、はその場から動けないでいた。すると彼は井筒の上に腰掛け、と目線を合わせて口を開いた。
「無駄なことだとは思わないのか?」
その言葉の真意がわからずが首を傾げると、シークアントは後ろ頭をガシガシと掻いた。
「……この世にゃ努力じゃ埋められない差がある。人間誰しも分相応ってもんがあるんだよ」
なにやら経験則に基づいた意見のようで、たちを小馬鹿にしたいわけではないことはわかった。かと言って、すんなり受け入れる気にはならない。

 しばらく二人の間に無言の時が流れた。いつのまにか朝日は完全に顔を出していて、汲みたての水に反射した光が優しく揺らめいている。は小さく深呼吸をすると、ようやくまとまった自分の思いを口にした。
「色々考えてみたけど、到底、キルアのことを諦められる気がしないんです。もし少しでも彼に近づけているなら、それはにとっては無駄じゃありません」
どれだけ住む世界の違いを見せつけられようと、諦めるという選択肢は、の中に存在すらしていなかった。キルア本人に拒絶でもされればあるいは、顔を覗かせるくらいはするかもしれないけれど。

 迷いのないの顔にたじろいだシークアントは、ふいと視線を逸らし立ち上がった。
「……ふん。まぁせいぜい頑張りな」
そう言い残して去っていく彼の姿が見えなくなるまで、はその場から動かなかった。なんとなく胸の中にあったものが、言葉にすることでより鮮明に、より強固になった気がした。

実は優しいシークアント。