No.5 : Trust


 地獄のマラソン、後半が始まった。湿原と言うだけあり、気を抜くと、ぬかるんだ地面に足を取られそうになる。
 しかし試験官のサトツは相変わらず無表情でスイスイと進んでいく。動作はほとんど徒歩のそれなのに、走らなければ追いつけない。今回は最初からかなりのスピードで、疲労が溜まっている受験者たちの集団は、すぐに散り散りになった。

 は集団の先頭にいた。最初はゴン達とともに中間あたりを走っていたのだが、偶然ヒソカと目が合ってしまい、逃げるようにしてここまで上がってきたのだった。その一連の流れを見て、笑いながらキルアがついてきた。
「キルア、笑いすぎ!」
むくれたが小突こうとするが、キルアはそれをそれをひょいとかわす。
「だって逃げ方が小動物みたいでおもしれーんだもん。でもまぁ……」
キルアの顔から笑みが消えた。
「今となってはの行動は正しかったかもな」
「……どういうこと?」
は首を傾げた。
「霧だよ」
そのキルアの言葉で初めて、は、周囲のもやが濃くなってきていることに気づいた。自分の前を走っている受験者たちの姿が霞んで見える。
「これに乗じてかなり殺るぜ、あいつ。殺りたくてウズウズしてる感じだったから」

 なんでわかるの、と聞きたげなの表情をちらりと横目で見やり、キルアは口の端を上げた。
「わかるんだよ、オレも同類だから」
は大きく二回まばたきをしたあと、キルアの顔をあらためてまじまじと見つめた。足元で水の跳ねる音がする以外、しばらく無音の時間が続く。
「……そっか。ゴン達、大丈夫かな」
そう言っては表情を曇らせた。今度はキルアが目を見開く番だった。

 キルアは、ある意味自虐的な賭けをしていた。あらかた、冗談だと笑われるか、怯えて逃げ出すかのどちらかと思っていたのだ。
「お前、オレが怖くないのか?」
先ほどのの反応は、キルアにとってまったく予想外のものだった。突拍子もない発言を信じ、なおかつ、それでも自分を恐れることなくそばに居るなんて。しかもあの臆病なが。
 困ったような顔をしているキルアに、は微笑んだ。
「キルアが居なかったら、はあのトンネルから出られずに死んでた。だから、の命はキルアのものだよ」
解釈を間違えればプロポーズにも聞こえるようなことを言われ、キルアは恥ずかしいやらおかしいやらでヘナヘナと脱力した。
「なんだそれ」
今はそれだけ口に出すのが精一杯だった。今日会ったばかりの人間の信用を得たことが、こんなに嬉しいなんて。

 霧が一層深くなった。姿は見えないが、あちこちから参加者達の悲鳴が聞こえてくる。
「助けに行こうなんて考えない方がいいぜ」
いつもの調子を取り戻したキルアに釘を刺され、はコクリと頷く。前半のマラソンでいっぱいいっぱいだった自分が向かっても、足手まといにしかならないことをは自覚していた。
「ゴン達ならきっと大丈夫。ゴールで待とう」
が自分に言い聞かせるように言ったそのとき、地面がぐにゃりと湾曲し、とつぜん視界が暗闇に包まれた。トロッとした何かが、の右腕に触れる。
「ひゃっ!」
驚いてその場から飛び退くと、柔らかい何かにぶつかった。脈打つように動く壁、生暖かい空気。
「もしかしてここ、何かのお腹の中?」

 こんなところで消化されてしまうなんてごめんだと、は壁を思いきり蹴り上げた。すると次の瞬間、体が地面に跳ね上げられ、宙に浮いた。視界が黒から一変し、先ほどまでと同じ見慣れた真っ白い景色が広がる。そしての体は勢い良く地面に叩きつけられた。
「いたっ」
「大丈夫か?」
キルアが駆け寄ってきた。彼の背後で、カエルのような形をした巨大な生物がドタドタと逃げて行く。そして次第に霧に紛れて見えなくなった。
「カエルの肉は鶏ささみの味……」
がポツリとつぶやくと、キルアが噴き出した。
「自分が食われかけたのにのんきだな」
「だってお腹すいたんだもん」
言い終わるとほぼ同時に、の腹の虫がなった。試験前に食べた焼肉は、すっかりどこかへ消えてしまっていた。

 その後も二人は幾度となく動植物達に襲われたが、キルアの持ち前の戦闘能力で次々にこれを突破していった。
 は対植物に関してはからきしだったが、動物相手となると実力以上の動きを見せた。そして戦闘後、捕食しようとしてキルアに止められるのがお決まりとなっていた。
「あ、何か建物が見える!」
が前方を指さして叫ぶ。霧の中から、古びた倉庫のような建物が見えてきた。
「ゴールか?」
とキルアが言った。建物の周りに受験者達が集まっているところを見ると、そのようだ。が歓声をあげた。
 トンネルのときと違い、景色や動植物で気が紛れるのか、はここまでバテることなく走ってきた。しかし気が抜けて一気に今までの疲れが襲ってきたのか、ゴール直後につまづいて転倒、キルアに爆笑されるのであった。

少しだけ縮まった距離。