No.2 : Run


「下剤入りジュースだぜ、あれ」
中身を噴出している缶をあごでしゃくった後、少年はひときわ強くトンパの鼻をひねり上げ、の前に差し出した。トンパは苦痛に顔をゆがめながらも、反抗はせずおとなしくしている。
「いでででで」
「このオッサンの常套手段らしー」
がトンパの瞳を睨むと、彼は脂汗を滲ませながら小さく震えた。さきほどのなれなれしい雰囲気はどこにもなく、ただただ、これから起こることに恐怖している。少年がトンパの顔を眼前に近づけてくるので、は顔をしかめて一歩、後ずさりした。
「殴るなり何なりすれば。もう少しでコイツの策にはまるとこだったんだし」
トンパの顔が蒼白になった。脂汗もいつのまにか冷や汗に変わり、体はかちこちになって、震えさえもおきないようだ。がゆっくりと、右手をトンパの顔に近づけると、彼はぎゅっと目をつむって、来たるべき痛みに耐えようと身構えた。

 ペチッという、なんともマヌケな音が聞こえたかと思うと、トンパの額に地味な痛みが走った。鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている彼を見て、は大きく噴出した。
「ぶは」
「おい、そんなんでいいのか? 割りに合わねーじゃん」
「だって、無抵抗の人間に何かするのって気分悪いもん。それに二対一なんて、卑怯」
指先についたトンパの汗を服の裾で拭きながら、はしれっと答えた。少年は目を大きく見開くと、鼻と額、二重の痛みにうめき声をあげているトンパの尻をつまらなさそうに軽く蹴って、見知らぬ男たちの中へ押し込む。周りの者は急に割り込んできた中年男へ忌々しそうに視線を向け、トンパは小さく縮こまった。

 それを見て満足したのか、少年は少し吹っ切れたような表情をにむけた。
「元はと言えばあいつがお前をハメようとしてたんだぜ、別に卑怯でもないだろ」
「そんなの、これからのしていけばいいんだよ」
口の端を上げて、言い聞かせるようには少年の猫っぽい瞳を見つめた。
「もう少しで下剤飲むトコだったやつがよく言うよな」
「う、うるさいな、ちょっと油断してただけだもん!」
の頬は一気に朱色へと染まり、それを見て少年は腹を抱えて笑い出した。こんな地下深くの、周りは大人ばかりの無彩色無機質な空間で、腹の筋肉が痛くなるまで笑えるなんて常識では考えられないことで。周囲の視線が痛いほど突き刺さっているのにそれでも本人たちは一切気にしておらず、初対面だったはずの二人は、いつの間にかすっかり打ち解けていた。

 試験開始と思われるベルが突然けたたましい音を発した。周囲に緊張が走り、喧騒が一斉に止む。
「何が始まるんだろうね」
「オレも今回が初めてだからなー。ま、気楽にいこうぜ」
得たものはなかったが、キルアがあまりにあっさりと言うのでは逆に安心感を覚えた。
「一つ目の試験は、私の後をついてきて二次試験会場までたどりつくことです」
突然現れたスーツ姿の紳士が、淡々とした口調でそう告げた。辺りは一瞬ざわついたが、男が歩き始めるとそれもおさまり、聞こえるのは数百人の足音だけになった。

 しかし、これが第一の試験だというわりには男の歩調は驚くほどゆっくりで、次第に周囲はザワザワと騒がしくなりはじめた。とキルアも同様で、まるで家の近所で並んでランニングをしているかのように和やかだ。
「そういえば、なんでキルアはを助けたの? ライバルは少ないほうがいいんじゃない?」
がきょとんとした顔で言った。するとキルアはいたずらっぽく口の端を上げる。
「こんな初心者一人、どうなろうが合格率に影響ないだろ」
散々な言われようには頬を膨らませた。
「キルアだって初参加のくせに」
「小さいこと気にしてるとハゲるぞ、ほら、あいつみたいに」
指差した先には、つるりと丸い後頭部。実は本人にしっかり聞こえていたりするのだが、メイは噴き出し、キルアは「な、いやだろ?」とか言っている。子どもというものは恐ろしい。

 しばらくするとの表情が険しくなってきた。キルアが速度を落として彼女の横に並ぶと、荒い息づかいが耳に届いた。かなり無理をしていたらしく、呼吸をするので精一杯。しゃべることもままならないようだ。
「先に、行ってて。は、自分のペースでいく、から」
途切れ途切れに答える。彼女の突き放すような言葉にキルアは口を尖らせた。せっかく見つけた話相手をあっさり見捨てる気にはなれなかった。
「どうせ一本道だしこのまま行こうぜ」
「実力があるのに、もったいないよ」
なかなか引き下がらないをこれ以上どう説得しようかと考えていたキルアだったが、突然浮かんできた、正攻法ではない打開策。自然に口の端が上がる。
「あー、でも速いにこしたことはないか」
そう聞こえたと同時に、とつぜんメイの体を襲った浮遊感。周りの景色や人々がものすごい速さで駆け抜けていき、風が、頬や髪を流れるように撫ぜた。いや、自分たちの速度が上がったのだ。

キルアとマラソン。