tune 25 : へんしん


 その日はずっと落ち着かない一日を過ごした。そして早めの晩ごはんを仕上げ、ようやく身支度に取り掛かる。シャワーでさっと汗を流し、化粧をし、生まれて初めてドレスを身にまとい、これまた生まれて初めてパーティ仕様に髪の毛を整えた。ハウルの魔法は完璧で、どれも違和感なく私に馴染んだ。
、すごくきれいだ」
そう言ってハウルが私の肩を抱き寄せ、額に唇を寄せた。顔中が風邪をひいたときのように熱を持ち、くらくらする。この場にマルクルがいなくてよかった。

 ジャスティンを親の敵かというくらいに嫌っているハウルのことだからもしかして、と思っていたけれど、彼は私に魔法で協力こそすれど、一切引き止めはしなかった。
 頭の上から足の先まで、準備は完璧。喉の調子も悪くない。ドアの前で深呼吸をする。ドアの先は、隣国の城門前に繋げてもらった。
「いってきます」
みんなにそう言って、ドアノブに手をかけたときだった。突然、右腕を掴まれた。
「これはおまじないだ。つけていきなさい」
そう言ってハウルが花のコサージュを私の左胸につけた。
「きれい……」
純白のガーベラが、深いブルーのドレスによく映える。
「ありがとう、ハウル」
さっきの仕返しに、背伸びをして、彼の頬に小さくキスをした。私のように赤くなりはしないけれど、頬に手を当てて面食らっている姿が見られれば十分だ。

 橋を渡り、門番に会釈をし、トンネルのような形をした石造りの城門をくぐると、整然と刈り揃えられた芝生が一面に広がっていた。所々に噴水や花壇が見える。足元から伸びる石畳は、奥の方にそびえる城へとまっすぐ続いていた。

 お城というものを訪れるのは初めてではないけれど、やっぱり緊張する。足が思うように動かなくなり、石と石の境目に蹴つまずきそうになる。
「ひゃっ」
大事なドレスを汚すわけにはいかない。すんでのところで持ちこたえた。
 そのとき、以前キングズベリーのお城を訪ねた際、ヒンのことをハウルだと思いこんで勇気を奮い立たせたことを思い出した。
 今回は、同行者はいない。でも、ハウルがおまじないにとくれたこのガーベラのコサージュがある。花びらに優しく触れてみると、なんだか勇気がわいてくる気がした。おまじないと言っていたし、ハウルがそういう魔法をかけてくれたのかもしれない。私は気合いを入れ直して、再び城へと歩き出した。

 楽団と音を合わせるのは初めてだったが、彼らのアドリブ力のおかげで素晴らしいハーモニーを奏でることができた。私は、一人で歌うのとはまた違った面白さを知ることができて、充実感でいっぱいだ。
 曲が終わると、歌声に感銘を受けたと絶賛する人たちが私の周りに集まってきた。あらゆる方向から同時に話しかけられて目が回りそうだ。いつもは空飛ぶ城の上から歌っているので、こんなにたくさんの人に囲まれたことはなかった。

 私が困惑していると、すぐにジャスティンが駆けつけてきて、彼らとの仲介役を担ってくれた。今度はうちで歌ってほしいと言ってくれる人、歌声を褒めてくれる人、握手を求めてくる人――ジャスティンのおかげでたくさんの人たちとお話しすることができた。この機会を作ってくれて、話し上手ではない私を助けてくれて。
「ジャスティン、今日は本当にありがとう」
人だかりがなくなったのを見計らい、お辞儀をした。すると、ジャスティンは先ほどみんなと話していた時よりも柔らかな表情になった。
「お礼を言うのはこちらのほうだよ。素晴らしい歌声だった。ありがとう」
そう言って差し出された手を握り返そうとしたとき、彼の手のひらに影がかかった。
「私は北の国の王子、アドルフと申します」
青年はそう言って丁寧にお辞儀をした。整った顔立ちに、エメラルドグリーンの瞳。艶のある長い銀糸のような髪を一つに結っている。なるほど、高貴な風貌をしていた。
「少し外の風にあたりながら話しませんか」
実は先ほどから人の多さに気分が悪くなってきていた。もしかしてそれを察してくれていたのだろうか。ちらりとジャスティンの方を見てみると、何か用事が入ったようで、ちょうど従者に呼び止められてしまっていた。
「……はい」
彼の差し出してくれた腕に導かれるまま、私はバルコニーへと歩を進めた。

 外へ出ると、少し強めの夜風が私の頬を撫ぜた。緊張で火照っていた身体にひんやりとした風は気持ちがいい。
 ホールから次のピアノ演奏が聴こえてきた。あちこちにチラホラと居た参加者たちが、美しい音色に誘われるように、一人、また一人と屋内へ戻っていく。
さん」
最後の一人がホールへ消えたところで、アドルフさんが口を開いた。妙に視線が熱っぽい気がするけれど、お酒を飲みすぎたのだろうか。彼の力強い眼差しから目を逸らせないでいると、とつぜん強く腕を引かれた。よろけてバランスを崩したところを、アドルフさんに抱きすくめられる。ふわりと柔らかな、ムスクの香り。
「あ、あの……」
あわてて逃れようとするけれど、彼の体はびくともしない。力ではどうにもならない。でも、このまま彼の好きなようにされるわけには、いかない。
「私には、た、大切な人がいるので、そういうことは、すみません……」
きっぱり断ろうと意気込んだものの、自分で言いながら恥ずかしくなってきたので、後半につれてどんどん声が出なくなっていった。
「大切な人、とは?」
少しだけ腕の力が緩み、至近距離で顔を覗き込まれた。息がかかるほど、近い。せっかく夜風で冷やされた頬がまた熱を持っていくのがわかる。
 そのとき、エメラルドグリーンの瞳が、見覚えのある青色に変化していく。髪も徐々に短くなり、シルバーからブロンドへ――。
「……ハウル!?」
目の前にいた異国の青年は、北国の王子なんかじゃなかった。空飛ぶ城の城主だ!

もうすこし、つづきます。