act 3 : sleeping and breakfast


 調子にのってマイケルをからかっていたソフィーはあることに気づきました。外から見ると城は激しく動いているのに、中に入ってみると、振動どころか少しの音も聞こえません。
「魔法使いに伝えときなさい。城をこれ以上動かしたら、自分の頭の上に崩れおちてくるだろうって」
この人は何を言っているんだろうとでも言うように、マイケルは大きくため息をつきました。
「城には、ばらばらにならないまじないがかけてあります。それに、あいにくハウルさんは留守なんです。明日にならないと戻らないでしょう。ご用は何でしょう? ぼくではむりですか? ぼく、ハウルさんの弟子で、マイケルといいます」
魔法使いハウルが明日までは戻ってこないということを聞いて、ソフィーは少し安心しました。それに、マイケルが一人前ではないというのもこちらにとっては好都合です。
「あいにくだけど、たぶん魔法使いじゃないとだめだね」
ソフィーはすばやくきっぱりと言いました。おそらく本当に、だめなのですから。
「待たせてもらうよ、かまわないね?」
マイケルが構うことは、はっきりしていました。困ったようにソフィーのようすそばをうろうろしています。見習い風情に追い出されるつもりはないとわからせるため、ソフィーは両目を閉じ、たぬき寝入りをはじめました。
「名前はソフィーだと伝えとくれ。年寄りのソフィーばあさんだよ」
「それだと、ひと晩じゅう待つことになりますよ」
ソフィーは聞こえなかったふりをしました。マイケルはソフィーをあきらめさせようと忠告しているつもりなのですが、彼女にとってはむしろ、望むところなのです。この城までずっと歩いてきたせいで、ソフィーはとてもくたびれていました。少したつとマイケルはソフィーのことをあきらめ、ランプが置いてある作業台で、やりかけの仕事に戻りました。

 これでひと晩、夜露をしのげます。多少うそくさいやり口だとしても。ソフィーはうとうとしながら考えました。ハウルはあんなに悪い奴なんだから、むりやり城に入りこんでもかまいやしない。それにハウルが戻ってきて何か言われたとしても、がなんとかしてくれるはず。だって彼女とは、この城までずっと一緒に歩いてきた仲だもの。本性はなんだか悪女っぽい人だけど、根は優しいし大丈夫よね。
 ソフィーは重いまぶたを開けてこっそりマイケルをうかがいました。ハウルの見習いがこんなに礼儀正しいなんて、驚き。少しプライベートに踏み込みすぎたら口調が荒くなるけれど、でもあたしが強引に入りこんだことに関しては文句を言わなかった。もしかしていつも、ひどくしいたげられているのかしら。でも、ひどい扱いを受けているようには見えないわね。背が高く黒髪で、人がよさそうな感じのいい顔だし、身なりもきちんとしている。と並ぶと本当に、美男美女カップルのようだわ、ちょっと尻にしかれてる感じだけれど。正直なところ、くねくねした細口瓶の緑の液体を、曲がった硝子瓶の黒い粉末入りの上に注意深く注いだりしていなかったら、きっと裕福な農家の息子だと思ってたわね。これが魔法使いの弟子だなんて、なんておかしいの!
 だけど、魔法使いのところじゃ何でも普通とは違うものなんだわ。なんにせよ、この台所だか仕事場だかは、すばらしく居心地がよくて静かね……。ソフィーは本式に眠りこみ、いびきをかきはじめました。ですから、とつぜん閃光がきわめいて作業台で爆発音がし、そのあとでマイケルが早口にきついののしりの言葉を吐いても、ソフィーは目を覚ましませんでした。マイケルがやけどした指をなめながら今度は仕事じまいにし、戸棚からパンとチーズをとりだしたときも、また、マイケルがソフィーの体ごしにまきを足そうとしてガタンと杖を倒したときもソフィーはずっと眠ったままでした。マイケルは杖を拾いあげて椅子の背に立てかけると、暖炉へていねいにまきをくべて、上の階の自分の部屋へ寝にいきました。

 ドアを開けると、自分の持っていたランプの明かりが部屋の床をかすかに照らしました。朝は確かに床へ散らばっていたはずの本が数冊、壁にくっつけるように積まれています。部屋の奥をランプで照らすと、本当にはマイケルのベッドですやすやと眠っていました。起こさないように、足音をたてないよう注意しながら近づき、マイケルは彼女の寝顔をおそるおそる覗きこみました。いびきこそかいていないものの、城までずっと歩きづめだったせいか、目をさます気配はまったくありません。マイケルはため息をつき、別の部屋で眠ることに決めました。このまま同じふとんにもぐりこむような勇気は彼にはないのです。そして、ドアノブに手をかけたときでした。
「どこいくのマイケル」
あまりにびっくりして、マイケルはランプを落としそうになりました。
「たぬき寝入りだったんですか」
はむくりと上体を起こし、わざとらしく眠そうに目をこすりました。そして乱れてしまった髪を手で軽く梳くと、口の端を上げてマイケルを見ました。
「ハウルの部屋にいったってろくなことがないわよ、ここで寝ればいいじゃない」
さんに襲われそうだから、いやです」
じょうだんでそう言うと、の笑みがいっそう深くなりました。
「あら、お望みとあらばそうしますけど。そうでないのなら、何もしませんわ」
の、いかにも冗談めいたしゃべりかたに、マイケルは自分の身の危険を感じました。彼の反応を楽しんでいるようで、は面白いものでも見るようにこちらを見上げてきます。ランプをはさんで、二人はそのまましばらく対峙していました。

「それにあたしを一人にするなんて、この部屋が明日どんな状態になっているか、見ものよね。大事な本とか、ね」
はちらりと山積みの本に目をやりました。マイケルの体がぎくりとこわばります。ランプの光が、の笑顔とマイケルの困った顔をゆらゆらと照らしました。
「……卑怯ですよ」
マイケルは大きくため息をつきました。このひとにはかなわない、そう思い知らされたような感じです。抵抗するのをあきらめてベッドに近づくと、はとなりにスペースを空けるように、壁際へと寄りました。いつも使っている自分のベッドだというのに、彼女が横にいるだけでドキドキが止まりません。
「ほら早く」
に腕を引っぱられ、マイケルはバランスをくずしてベッドへ倒れこみました。上にふとんがかけられ、あっというまに二人は横にならんで収まってしまいました。横を見ると、相手の顔がすぐそこにあります。はずかしくなって、マイケルは反対をむきました。
「おやすみ、マイケル」
すぐ近くからの声が聞こえてきて、わかっていたはずなのにマイケルはビクッと肩を震わせてしまいました。そんな反応を見て、が笑っているのを背中で感じます。からかわれてばかりですが、けっこうまんざらでもないなとマイケルは思いました。
「おやすみなさいさん」
言い終わらないうちに、まぶたがゆっくりと下りてきていました。

 重いまぶたを開けると、目の前には昨日と同じように彼の背中がありました。窓からさしこむ朝日が、彼の黒髪にキラキラと反射しています。かすかな寝息が聞こえ、それは彼がまだ深い眠りについていることを示していました。いっしょに寝ているというのに、彼はこちらにむく気がさらさらないようです。いえ、いっしょに寝ているからこそはずかしくてこちらを見ることができないのでしょう。はそんな彼を見て笑みをこぼし、起こさないようにそっとベッドを抜け出しました。
 足音をさせないように一階へおりると、ソフィーが暖炉の前の椅子に座ったまま眠りこけていました。暖炉の火は消えかかり、まきはほぼ全て灰の山になっています。が駆け寄ってまきをごっそりと火にくべると、みるみる炎は大きくなり、さきほどまでなかったはずの顔がその中に現れました。
「おはようさん。あのまま消えるかと思ったよ」
炎はまるで肩でもすくめるようにゆらゆらとゆれて見せ、すぐに笑顔になりました。まきをもう一本加えると、も笑顔になって言いました。
「おはようカルシファー。元気になったついでに、おふろへお湯を送ってくれると嬉しいわ」
「がってん承知!」

 作業台の先のつきあたりの壁にある扉を開けると、浴室にそぐわない緑色のシャワーが目にとびこんできました。足つきのばかでかい浴槽や、四方の壁にかけられた鏡といったぜいたく品がだいなしです。は便器を見て顔色を悪くし、浴槽の色を見てあとずさりし、シャワーの緑色の正体である苔にとびのきました。鏡には得体の知れない物質が点々や白いすじになってこびりついており、これでは満足に自分の顔を見ることもままならないでしょう。
「悪夢だわ」
は軽くシャワーだけですませることにしました。といっても、シャワーさえも汚れているので、そのまま使うわけにはいきません。は物置からたわしを引っ張り出してきて、シャワーヘッドの苔を丹念にこすり落としました。気味の悪い緑色だったシャワーがぴかぴかの白になったときの喜びは、これからしばらくは忘れないでしょう。
「……なんであたしがこんなことしなくちゃいけないのかしら!」
は悪態をつきながら、たわしを浴槽目がけて投げつけました。

 さっぱりして浴室から出てきたときには、さきほどのいらいらはいつのまにかどこかへ消え去っていました。シャワーのついでに服もその場で洗い、浴槽の上の広い棚に置いてある『かんそ こな』を使って乾かしたおかげでしょう。登山のおかげで少しくすんでいた服の色が、すっかりもとの純白に戻りました。
 ソフィーはまだ暖炉の前でぐっすり眠ったままでした。窓から差し込む朝日のようすからして、もうそろそろ彼女も二階のマイケルも起きだすころでしょう。は鼻歌を歌いながら、戸棚のある壁にかかっていた大きなフライパンを持って暖炉にむかいました。
「カルシファー、こんどは火をお願い」
「ゲッ……もしかして料理をするつもりじゃないだろうね?」
火の悪魔は、けげんそうに眉をひそめてを見ました。そんなことを聞かなくても、彼女が持っているフライパンを見れば何をするかは一目瞭然です。はにっこりと極上の笑顔を浮かべて言いました。
「そうよ、みんなのために朝食を作るの」

 マイケルが寝ぼけまなこで階段をおりるとちゅうに見たものは、不機嫌顔で作業台の前の椅子にすわってむくれているでした。髪の毛は半乾きで、着ている服は昨日よりも白さが増しているようです。作業台の上にはフライパンが置いてあり、彼女が何をしようとしていたのかマイケルはすぐに察しがつきました。それと同時に、この城の平和を守った火の悪魔へ、心の中で拍手喝采を送りたいくらいに感謝しました。というのも、は過去に、料理に失敗してこの城をふっとばしそうになったことがあるのです。
「おはようございます、さん」
「おはようマイケル」
はいつもより少し低いトーンでこたえました。さわらぬ神にたたりなし、とでも言うように、マイケルはフライパンのことについては何も触れません。
「おはよう、
どうやらソフィーも目をさましたようで、ピシピシ体をきしませながら立ちあがっていました。そして作業台の上のフライパンに目をとめると、ヨロヨロとした足どりでに近づいてきます。
「おはようソフィーさん」
フライパンを掴んで暖炉へむかううしろ姿に、はいつものトーンであいさつを返しました。ソフィーはうしろをふり返ってにこりと笑い、暖炉の前に立ちました。カルシファーは挑戦的に彼女を見上げていて、一筋縄ではいかなさそうです。
「さあ、カルシファー頼むわよ」
反抗的な火の悪魔に負けないように、ソフィーはしっかりとした口調で言いました。

「おいらに指図はできないよ!」
悪魔は小生意気に答えました。わざと体を伸ばして燃えていて、フライパンを乗せられないようにしているようです。もし背伸びをしたとしても、頭の炎には届かないでしょう。
「カルシファーはハウルさんとさん以外には頭を下げないんです」
うしろからマイケルの忠告が聞こえました。しかしこんなところで引きさがるソフィーさんではありません。厳しい口調で妹たちの大喧嘩を止めることもできた彼女です。
「さもないと、水をかけてやる。でなきゃ、あの火箸でまきを全部とりだすとか」
ソフィーはひざをきしませながら暖炉脇にかがみ、声をひそめてつけ加えました。
「それとも、きのうの取引をやめてもいいし、さもなきゃハウルに言いつけるなんてどう?」
の眉がピクリと動きました。
「ちぇっ、いまいましい」
カルシファーは吐きすてるように言いました。
「なんでこんな奴を中へ入れたのさ、マイケル?」
さんに言ってください!」

 すねたようにカルシファーが青い顔を前へかがめると、輪になった縮れた緑色の炎が見えるだけになりました。相手が急に起きあがらないか警戒しながら、重たいフライパンを緑色の輪にドサリとのせました。が持ってきたお皿からベーコンを一枚取り、熱したフライパンに落とすと、ジュッといういい音がします。
「ベーコンなんか焦げちまえ」
カルシファーはフライパンの下でこもった声を出しました。ソフィーは、かまわずフライパンの上でベーコンを炒めます。ベーコンがジュウジュウと音をたてました。フライパンは熱々で、スカートのはじを使わないと、とってを持てないほどでした。そのとき扉があきました。でもベーコンが焼ける音にまぎれ、ソフィーは気づかないままカルシファーに言い聞かせていました。
「いい、ばかなことはなし。卵を割り入れるあいだ、じっとしてるのよ」
は卵の入ったかごの中へその辺にあったさじをぽんとほうりこむと、暖炉のところまで来てソフィーのとなりに立ちました。かごの中から卵を取り出し、ソフィーにさし出しました。
「あ、ハウルさんお帰りなさい」
マイケルが困ったように言いました。ソフィーさんは少しあわててふりむき、びっくりして見つめました。入ってきたのは、派手な青と銀の服を着た背の高い若者でした。若者は部屋の片すみにギターを立てかけようとして手を止め、風変わりなすんだ緑色の目にかぶさった金髪をかきあげると、ソフィーを見つめ返しました。やせた細長い顔が、不思議そうな表情になりました。
「あんた、いったい誰だい? 前にどこかで会ったっけ?」
「いいえ、これが初対面」

 ソフィーはきっぱりと嘘をつきました。つまるところ、ハウルとはたった一度、五月祭で会っただけです。それもソフィーをネズミちゃんと呼ぶ程度。だから、まるきり嘘というわけでもないのです。あのときはあやうく逃れられたのだと、幸運な星まわりに感謝すべきところでしょう。でもまず思ったのは――おやまあ、魔法使いハウルってのは、あんなに悪い奴のくせして、二十代のほんの若造じゃないの! ――ということでした。フライパンのベーコンを裏返しにしながら、ソフィーは歳をとるとこんなにも見方が変わるものなのかと考えていました。この着飾った若者に、五月祭のときに同情した娘だと知られるくらいなら、死んだほうがましというものです。いえ、若い娘の心臓や魂がどうとかいう話は、このさい関係ありません。とにかく、ハウルにはあれが自分だと知られてはならないのです。

「ソフィーさんとおっしゃるそうです。昨晩、さんと一緒にやって来て」
マイケルが説明すると、ソフィーの横にいたは居心地悪そうにギクリと体を固まらせました。
「やあ、君からこの城にやってくるなんて珍しいじゃないか。ダニエルが心配してるんじゃないのかい?」
そこらの女性なら卒倒しそうなほどの美しい笑みをうかべてハウルはの顔を覗きこみました。
「ダンとは終わったの。カーティスもへスターもウォルトも。もうその話はやめて」
は持っていた卵をハウルに渡すと、彼に視線をむけようともせず、きびすを返しました。そして作業台の前までくると、椅子を引いてどかっと腰を下ろしました。すぐ横の椅子にすわっていたマイケルはびくりと肩を震わせて、おそるおそるの様子をうかがっています。
「じゃあ、ぼくに会いたくて来たんだね」
「それはありえないわ、マイケルに会いにきたのよ」
ハウルは笑みをうかべながらギターをすみに置くと、暖炉に近寄り、有無を言わせずソフィーを脇に押しのけました。ベーコンの匂いにまざって、ハウルからはヒヤシンスの香りがします。
「カルシファーはぼく以外の人間が料理するといやがるんだよ」
ハウルはひざをつき、長い袖のはじをフライパンのとってに巻きつけました。
「ベーコンをもうふた切れと、卵を六つこっちに。そしてここへ来た理由を話して」

女々しい、なんて女々しいんだマイケル。