No.118 : Hideout


  扉の向こうにあったのは崩れかけた大部屋だった。天井は高く、高窓から差し込んだ光が室内をうす暗く照らしている。部屋の外周は瓦礫の山に囲まれ、床にも細かな破片が散らばり一面を覆い隠していた。
 室内へ足を踏み入れたとたん、瓦礫に腰かけた団員たちの冷たい視線が一身に刺さる。はもつれる足でなんとか部屋の中央まで進むと、周りを見回して驚愕した。マチ以外にも見知った顔がいる。
 一人目は条件競売でゴンと腕相撲勝負をした、黒髪で眼鏡の女だ。彼女は相変わらずぼんやりとした表情で、興味なさげにこちらを見下ろしていた。しかしマフィアが公表した賞金首リストであらかじめ正体は割れており、さして驚きはない。
 問題は二人目だ。ハンター試験に引き続き、天空闘技場でも散々世話になった奇術師ヒソカがしれっと団員に混ざっている。

 は思わず声をかけそうになったが、同じく顔見知りであるはずのキルアが何事もなく視線を逸らしたのに気づき、喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。――急いて状況をかき乱すより、今は耐えるべきなのだろう。
 しかしいろいろな意味でまっすぐなゴンにそのブレーキは働かなかった。真ん丸な瞳をさらに見開き、思い切りヒソカの姿を捉えたまま声を張り上げる。
「あ!」
キルアはこめかみを引きつらせ、は息を飲んだ。二人の反応から、先の行動が悪手だったと気づいたゴンは慌てて口を噤む。しかし時すでに遅し。団員たちの視線に滲む不信感はより一層色濃くなった。
「どうした。知ってる奴でもいたか」
フィンクスの問いに思わずゴンの目が泳いだ。何でもないでは済まされない空気が出来上がってしまっている。

 完全にしどろもどろのゴンから視線を外し、キルアはとっさに周囲を見回した。そしてすぐに思いつく。
「……あ、あのときの女!」
キルアが指さしたのは件の眼鏡の女だ。この機転は功を奏し、皆の関心は一気に彼女へ注がれる。もちろんフィンクスも例外ではない。
「なんだ、シズクの知り合いか?」
するとシズクはほんの少し考えるようなそぶり見せ、心底不思議そうに首をかしげた。
「ううん、知らないよ」

 キルアの背筋に冷たいものが走った。彼女とは以前確実に対峙したはず――だがそれを証明するものが何もない以上、本人にしらを切られれば終わりだ。いずれにせよヒソカとの繋がりを勘ぐられることだけはなんとしても避けたい。
 しかしその一連の心配は杞憂に終わる。
「思い出した。腕相撲の時の子どもね」
どうやら離れたところで仲間が見ていたらしい。口元を襟で覆い隠した小柄な男がキルアの言葉を裏付けた。

 ほっと息をついた三人に対し、肝心のシズク本人は釈然としない。記憶のふちにかすりもしていないようで、先程から首を捻ってばかりだ。
「お前おとといあの子どもと腕相撲して負けたろ」
痺れを切らしたのか、顔に傷のある大男が口を開いた。それでもシズクのきょとんとした表情は相変わらずで、一連の出来事がきれいさっぱり頭から抜け落ちている。最初はこちらを貶めるための演技と疑っていたキルアだが、表情、しぐさ、どれをとっても彼女の言葉に偽りはなかった。

 しかし、どうやらこの流れは彼らの内でお馴染みらしい。
「無理ね。シズクは一度忘れたこと思い出さない」
この場において、彼女の発言を間に受けている者はいないようだ。がこっそりと肩の力を抜いたのもつかの間、団員の一人に動きがあった。
「ほォ。オメー、シズクとやって勝ったのか」
本来のターゲットだった長髪男だ。ゴンが肯定すると、気を良くしたのか、彼はわずかに喜色を滲ませながら中央へとやって来る。そして慣れた手つきで髪を束ね、すぐ側にあった木板に右肘を乗せた。様々な廃材が積み上げられたテーブル様のそれが軋んだ音を立てる。
「よし、オレと勝負だ」
唐突な展開だが、こちらの言い分がすっかり浸透している点は願ったり叶ったりだ。ゴンが誘われるがまま男と対峙する様をは黙って見ていた。

 決着は一瞬でついた。男が開始の合図を口にした直後、静まり返った大部屋に爆音が響く。勢いよく手の甲を打ち付けられたのはゴンだった。
「もう一回だ」
返事も待たず、男は第二ラウンドを開始した。それも一瞬で片が付いたかと思えば、間髪入れずに次の勝負が始まる。ゴンは何も喋らない。

 時が経つにつれ、ゴンの右手には痛々しい傷跡が増えていく。
「なァ。オレぁ腕相撲何番目に強いかね?」
ラウンドの数も十をゆうに超えた頃、長髪の男がふと問いかけた。
「七〜八番ってとこじゃねーか?」
「弱くもないけど強くもないよね」
大男とマチが返事をよこす間にも、もちろん勝負は続いている。ゴンとて微塵も手を抜いているつもりはないはずだが、結果は最初と変わらず全て同じだ。は団員たちの気の抜けたような問答より、ゴンの凄惨な右手が気がかりで仕方なかった。

「――で、一番強かったのがウボォーギンって男だったんだけどよ。そいつが鎖野郎にやられたらしくてな」
自分たちを置き去りにどこか和気藹々としていた場の空気が一瞬で張り詰める。身を硬くするの横で、辟易した顔のキルアが小さく息を吐いた。
「だからそんなやつ知らないって言ってんだろ」
「……おいガキ」
唸り声のような低音に、矛先を向けられたわけでもないの心臓が縮こまった。男はこれまでに見たこともない威力でゴンの右手を打ちつけ、酷使された台はいよいよ悲鳴をあげる。
「次に許可なく喋ったらぶっ殺すぞ」
そのとき、は改めて実感した。自分たちの生殺与奪の権は彼らに握られていたままだったことを。
 恐怖のあまり、空気音ですら彼の気に障りそうな気がして、は震えながら浅い呼吸を繰り返した。

蛇に睨まれた蛙。