act 1 : beautiful woman and old man


 美女の心臓を喰らう魔法使いが空飛ぶ城に住んでいるという話は、街で一番有名なうわさでした。それは、街のあちらこちらでまことしやかにささやかれている根も葉もないものですが、住民たちは皆それを信じており、娘たちの外出時には必ずその話題が上ります。そしてそのうわさの城は、今日も街の上空をゆっくりと飛んでいて、みんなはそれを見上げておしゃべりのねたにするのでした。
「おじょうさん。一人で歩いていたら、魔法使いハウルにさらわれてしまうよ」
お客さんとの交渉を終えた魚屋が、目の前を通りすぎていく女性に声をかけました。この街はみんな人当たりのいい者ばかりなので、誰にでも気軽に挨拶を交わしたりするのです。女性は魚屋に振り向くと、嫌味のない笑顔を浮かべて言いました。
「それもいいかもしれませんね。今から楽しみですわ」
彼女の笑顔はとても美しく、さきほどの言葉がどんなに常識はずれだったかなんて、魚屋は少しも気になりませんでした。もう一度にっこりと笑って去っていく彼女の優雅なうしろ姿を、魚屋はしばらくのあいだ惚けた様子で見つめていました。

 商店街を歩き、住宅街を抜けたは、いつのまにか街の外にまで来ていたことに気づきました。白いスカートの裾が風にはためき、流れる髪の間から真っ赤なルビーがかすかに覗きます。粒が大きく、とても高級そうなイヤリングでした。乱れる髪を右手で押さえながらぐるりと辺りを見回すと、遠くにあるためにかすんで見える街が視界に入るとともに、一人のおばあさんが下から坂を登ってくるのに気づきました。ゼエハア言って、ときおり膝に手をついて休憩しながらゆっくりと登ってきます。は今まで登ってきた道を引き返し、苦しそうなおばあさんのもとへと駆け寄りました。
「おばあさんだいじょうぶですか。荷物、持ちますよ」
おばあさんはハッと顔を上げましたが、すぐに元の表情へと戻りました。
「こんなところに人がいるなんて」
おばあさんはそう言うと、を上から下まで眺めました。無理もありません。このような、面白いものも何もないところに人が来るなんてめったにないことですし、の出で立ちは明らかにこの場とミスマッチしています。白を基調とした服やバッグは汚れが目立ってしまいますし、はいている靴もヒールの高い、登山には到底むかないようなものでした。おまけに美しい飾りがついており、明らかにパーティーや舞踏会向きだということがわかります。もとはしっかり整えてあったのであろう髪も、今や吹きすさぶ強風のせいで櫛を入れていないかのように乱れていました。
「私はと言います、おばあさん」
は丁寧に挨拶をしたあと、おばあさんの手から優しく荷物を受け取りました。なるほど、お年寄りが持って坂を登るにしては重く、さきほどおばあさんが苦しそうだったのもわかります。
「あたしゃソフィーばあさんだよ。ありがとうね、
それから二人は、会話を交わしながらゆっくりと坂を登っていきました。ソフィーの話によると、これからの行き先は決まっていないようです。は、用事もないし楽しそうだということで、そのまま彼女に同行することに決めました。

「あら、あんなところに棒があるわ。ソフィーさんの杖に使えるかもしれない」
は、茂みに突き刺さっている一本の棒を目ざとく見つけました。ソフィーは老眼のために気づかなかったのです。二人は茂みに歩み寄り、不自然に突き刺さっている木の棒をじっと見つめました。長さも太さも、杖にするにはピッタリです。
「待っていてください、今、抜きますから」
持っていた荷物を地面に置いて袖をまくると、は棒をしっかりとつかんで足を踏ん張りました。ソフィーはその様子を少し離れたところから見守っています。
「う……キツ、い……」
棒は思ったよりも深く突き刺さっており、そう簡単には抜くことができませんでした。しかし数回にわけて力を入れていると、ついに茂みの中からカカシの体が姿を現しました。それは、しなびたカブの頭にぼろぼろの服という、なんともみすぼらしい姿をしています。
「カカシくん、どうして君はこんなところに突き刺さっていたの?」
は遊び心からカカシに話しかけますが、カブ頭が喋りだすとはとうてい思えません。それに、杖に使うこともできなさそうです。は大きなため息を一つつくと、カカシをかついでソフィーの元へと向かいました。

「カカシくんを一人つかまえましたよ。どうです、杖にでも」
「いいえ、遠慮しておくわ」
ソフィーはすぐに断りました。だいいち杖に使えるような長さではないですし、が本気でそんなことを言っているのではないのもわかっています。あれだけ苦労したにもかかわらず何も使い道のないカカシを手に入れてしまったは、もう一度大きなため息を吐きました。
「私たちがこのカカシを持っていてもしょうがないし、元のところに戻してあげましょう」
ソフィーの考えに、はすぐさま納得しました。このままカカシを持って旅をするなんて、まっぴらごめんです。は、今度は体がちゃんと見えるよう頭を上にしてカカシを茂みに突き刺しました。いくら若いとはいえ非力な女性であるは、たび重なる運動で少し息が上がってきています。
「お互い、たいした姿とはいえないわねかかしくん。ここにいれば誰かが見つけて畑においてくれると思うわ」
ソフィーもと同様にカカシへと話しかけました。もちろんカカシは何も喋りませんが、ソフィーはなんだか満足げです。はその様子を見て、少し苦労が報われたような気がしました。

 それから小一時間ほど歩き、二人は土手に腰を下ろしました。ソフィーは持っていた風呂敷の中からパンとチーズを取り出しましたが、は何をするでもなくただボーッと下の景色を眺めています。
「もしかしては食べる物を何も持っていないの?」
「ええ、でも気を使わなくていいわ。ここに来る前に、たくさん食べてきたから」
そう言ってはにっこりと綺麗な笑みを浮かべました。その姿はまるで、どこかの貴族かお姫様のようです。
「どこかのパーティーにでも参加していたの?」
「そんなたいそれたものじゃないわ、ただの酒屋よ」
ソフィーは目をまん丸くしました。彼女と酒屋では、どうにもイメージが合いません。そこで、本当は豪華なパーティーに出席していたのに謙遜して嘘をついているんだ、とソフィーは勝手に思うことにしました。

「……あら、何か聞こえない?」
の言葉を聞いてソフィーも耳をすませると、なにやら動物の息遣いが聞こえてきました。辺りを見回すとサンザシの生垣がかすかに揺れています。はつらそうに立ち上がろうとするソフィーを制し、生垣をゆっくりとかき分けました。するとそこでは、やせた灰色の犬が、がっしりした棒に引っかかっていました。しかも、犬の首に巻かれたロープがねじれて棒に絡まっています。さらにその棒は生垣の枝のあいだにしっかりと挟まれ、犬は身動きが取れません。その犬を哀れに思ったは自分の鞄の中身をひっくり返し、ごちゃした荷物の中からナイフを取り出しました。地面には、化粧品や財布などいかにも女性が持ち歩いていそうなものばかりが散らばっていますが、彼女が今もっている鋭いナイフだけはどこか異常です。ソフィーはまた目をまん丸くしました。
、あなたいつもそんな物騒なものを持ち歩いているの?」
「ええ。護身用なの」
それを聞いてソフィーは何となく納得することができました。そのあいだにも、は不器用な手つきでどんどんロープを切り刻んでいきます。間違えて毛を切ってしまうと、犬は驚いてキャンと鳴きました。
「もう少しだから、ね、動かないで犬くん」
危なっかしい手つきのに嫌気が差したのか、犬は落ち着きがなくなってきています。ソフィーはそのようすをハラハラしながら見守っていて、パンを食べる手は完全に止まっていました。そんな緊張した時間がしばらく続き、ようやく犬の首からロープが取り除かれました。犬もも、長い奮闘のためにぐったりしています。
「ごめんね犬くん。私、不器用だから……」
がそう言い終わらないうちに、犬は生垣の反対側まで通り抜けてさっさと逃げだしてしまいました。犬が逃げてしまったのは自分が至らないせいなのだ、とは自分を責めまています。ソフィーは彼女をなぐさめるように、しっかりと目を合わせて言いました。
のせいじゃないわ。あんな状態にされてしまったから人間を恐れているだけなのよ」
「そう……だね」
はとても動物好きらしく、助けてあげたにもかかわらず犬が一目散に逃げ出したことをその後もしばらく気にしていました。
「犬は逃げてしまったけれど、あなたのおかげでいいものを手に入れたわ」
ソフィーはそう言って一本の棒を拾い上げました。犬に巻きついていたロープが絡まっていた、あの棒です。しかしそれは、実はただの棒ではなく、本物の散歩用の杖だったのです。仕上げは入念だし、石づきは鉄でした。
「そうね。そんなにいい杖が手に入ったんだから、喜ばないとね」
は元気を取り戻したようです。

「出会いが二度。でもどっちも、魔法でお礼をしてくれやしなかった。むろんあんたはいい杖よ。文句言ってるわけじゃないの。ただお話の中だと、三度目の出会いがあるはずなのよ。魔法がらみかどうかは別にして。ううん、ぜったいあるわ。どんな出会いになるのかしら」
ソフィーはさきほど拾ったばかりの杖に話しかけていました。どうやら彼女には話しかけぐせがあるようです。
 ソフィーが言ったとおり、三度目の出会いはありました。午後も遅くなり、二人が丘陵地帯のかなり高いところまで登ってきた時です。一人の農夫が口笛を吹きながら坂を下ってきたのです。たぶん羊飼いが羊の世話を終えて家路につくところでしょう。体格のいい、四十かそこいらの中年でした。しかしソフィーからすれば、じゅうぶん若い人といえます。
「おやまあ。今朝この人に会ったら、年寄りだと思ったでしょうね。人の見方って、なんて変わりやすいの!」
ソフィーがブツブツ呟いているのを見て用心深く道の向こう側に寄った羊飼いが、親しげに言いました。
「こんばんは、おっかさんとお嬢さん。どっちへお出かけかね?」
「おっかさんだって? お若いの、あたしはあんたのおっかさんじゃあないよ!」
ソフィーが少し口調を強くして言うと、羊飼いは生垣ににじりよりながら答えました。しかし目線はを捉えていて、どうやら彼女に見とれているようです。
「話しかけるときの作法でさあ。一日も終わろうかというこんな時間に、たった二人で登っていらっしゃるんで、一応おたずねしたまでです。<上折れ谷>に日暮れ前に着くのは無理ですよ」
「たいしたことじゃないさ。運試しに行くときゃ、うるさく言ってられないからね」
ソフィーは半分ひとり言のように言いました。「そういうもんですかい」と羊飼い。ようやくソフィーの脇をすり抜けたので、その分だけほっとしているようです。
「そんじゃ、幸運を祈ります。ただしおっかさんたちが、わしらの家畜にまじないをかけることと無関係なら、ですがね」
すぐに羊飼いは大股で、走るように坂を下りていきました。は目を真ん丸くしました。
 ソフィーはむっとして羊飼いを見送り、「あたしたちのこと、魔女だと思ったんだ!」と杖に話しかけています。無理もありません。ソフィーは魔女の典型であるおばあさんの姿ですし、の美しさも常人離れしています。きっと、魔法で姿を変えているとでも思われたのでしょう。しかし怒っているのはソフィーだけで、はどうってことないという表情をしています。
「こんな辺境地じゃあ間違えられても無理はないわ。それにもう日だって暮れかけているし」
こんどはがフォローをする番でした。

 二人は丘の上を目ざし、お互いに励ましあいながら懸命に登り続けました。いくら若いとはいえも普通の女性ですし、これだけ運動すれば疲れます。今や、息切れどころの問題ではなくなっていました。そのうち道の両側は生垣がなくなり、むきだしの土手になりました。土手の向こうはヒースにおおわれ、さらにその向こうの険しい斜面では、黄色い草がカラカラ音をたてています。しかし二人はへこたれずに登り続けました。はヒールの高い靴をはいているため、このままでは靴擦れになってしまうかもしれません。それにソフィーは老いた足や背中が痛そうです。ついには励ましあいもできないほど疲れきり、ハアハア言いながら歩き続けているうちに、とうとう太陽が丘の向こうに沈み始めました。それを見たとたん、もう歩くのはたくさんだとは思いました。
 二人は道端の石の上にへたり込み、これからどうしようかと話し合いました。
「今、ほしいものはたった一つ、座り心地のいい椅子よ!」
「……同感。でもフカフカのベッドもほしいわ」
二人の座った石は見晴らし台のようになっていて、辺りを一望することができました。眼下には夕日を浴びた谷が広がっています。一面の野原、塀、生垣、蛇行する川、金持ちの豪壮な屋敷が木立のあいだに輝いている様子、そしてはるか遠くには、青い山並が見えます。<がやがや町>がすぐそこに見えます。なじみの通りを見わけられる気がします。<がやがや広場>と、<チェザーリの店>。帽子屋のとなりにあるうちの煙突に石をぶつけることだってできそうです。
「まだこれだけしか来ていないなんて!」
「けっこう歩いたはず、なのにね」
二人はがっかりして肩を落としました。今までさんざん苦労して、さらには魔女に間違えられてまで登ってきたのに、出てきたはずの町はすぐそこに見えます。は、まるで町に引き寄せられているかのような感覚に陥りました。
 日が沈むと石が冷えてきました。冷たい風をさえぎる物もありません。こうなると夜じゅう丘の上ですごしたってかまわない、とは言えなくなってきました。座り心地のいい椅子と炉端が恋しいし、暗闇と野生の動物は恐ろしいし。は、決してこの苦しい旅から抜けてはならないなどという理由はありませんが、なんだかソフィーと離れたくはありませんでした。彼女のそばにいれば、何かが起こるような気がするのです。それにもし<がやがや町>に引き返しても、着くのは真夜中になるでしょう。こうなったら、このまま進むしかありません。二人は顔を見合わせてため息をつくと、重い腰をゆっくりと上げました。長時間の運動のせいで、体中が痛みます。
「年寄りがこんなことを我慢しているとは、ちっとも知らなかった!」
はソフィーの言葉に首を傾げましたが、今は疲れのせいでそれどころではありませんでした。息を切らせながらもくもくと登っていくソフィーの後を追いかけます。
「でも狼があたしを食べたがるとは思えない。干からびてかみきれみたいに違いないもの。それだけが慰め」
「私は食べられてしまうかもしれないけどね」

 今や急速に夜の(とばり)が下りようとしていました。ヒースの斜面がどんよりした青色にかすみ、風が冷たさを増しました。ハアハアあえぐ二人の息づかいと、ソフィーの間接がきしむ音があまりに大きく響いていたので、ギシギシいう音が他からも聞こえると気づくまでにしばらくかかりました。二人はかすむ目で空を見上げました。
 魔法使いハウルの城が、こちらに向かって荒野をゴトンゴトンと進んできていました。黒い煙が黒い胸壁の中から吹き上げ、雲となってたなびいていました。城は大きく、あちこちが尖っていてどっしりして醜く、まさに不吉さを絵に描いたようでした。どうやって動くのだろうとソフィーは考えていました。それにもっぱら頭を占めていたのは、あれだけの煙が出ているからには、あの高く黒い壁の内側のどこかに大きな暖炉があるはずだ、ということです。ソフィーは心配そうにを見ました。
「私はだいじょうぶだけど、はどうかしら……」
「いざとなったら相手に噛み付いて逃げるわ。あいては魔法使いだし、成功率はかなり低いけどね」
がにこっと笑って言ったので、相当な自信があるのかとソフィーは思いました。思えば、鋭いナイフなどを護身用として所持していたし、何か秘策があるのかもしれません。ソフィーは彼女の力を信じることにしました。
 ソフィーは杖をかざすと、城に向けてえらそうに振りながら「止まれ!」と金切り声で叫びました。城はギーギーいいながら、二人より五十フィートほど上の斜面に止まりました。とソフィーは、おぼつかない足取どりで近寄りながら、ほっとしていました。

「原作をアレンジ」ではなく、「原作プラス絡み」みたいな。